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[ 歴史 ]戦時中、日本にあった外国人抑留所、その実態とは?

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#ニューズウィーク

迂闊(うかつ)なことに、戦時中の外国人抑留については全く知らなかった。自分の中では、戦争への足音で、すべての外国人は海外へ逃げたと思っていたからだ。かりに日本人と結婚し子供ができ家庭を持っていたならば、そうはならないはず。ここを見落としていたと言える。今年(2024)8月放送されたNHKクローズアップ現代、ここで初めてこの情報を知ることができた。ウェブ検索をしてみると、すでに9年前(2015年8月)にニューズウィークでも記事がアップされており、この情報は広まっていたと見られる。

*小説『少年H』での外国人!
舞台演出家の妹尾河童(H少年)が1997年にあらわした小説『少年H』。この中でも日本にいた外国人の話が出てくる。H少年の父、紳士服の仕立職人、主な客は神戸に住んでいた外国人だった。H少年も、親について外国人宅まで行っている。その時の話も小説のなかで書いていた。

顧客である外国人、お金持ちが多かったようだ。貿易商やレストラン経営者などだが、外国人同士の横のつながりがあったのだろう。日本を取り巻く世界情勢については、彼ら外国人は深く知っていたようである。父の盛夫、外国人との会話はまともにはできなかったものの、日本の置かれた状況をわかっており、息子のHにはよく話していた。

ただ、1941年12月8日、開戦と同時に盛夫は外国人との関係がなくなってしまい、この小説には外国人の話は出てこなくなる。考えてみれば、戦争が始まれば連合国側の外国人はすべて敵だ。日本の警察が放っておくはずはなかった。これを見落としていたのは、まさに迂闊(うかつ)だったと言える。

*Newsweek記事(2015年8月)
タイトルは『戦時下の「外国人抑留所」日記』とある。英国籍医学生、開戦時22歳のシディンハム・デュアが書いたとされる日記を紹介していた。このデュア、父は宝石商を営み、母は日本人。横浜に住み、慈恵大病院で学んでいた学生である。

開戦と同時にこの親子は横浜競馬場横の施設に抑留された。しかし1年半後、足柄山山麓の施設へ移転。終戦までこの地で暮らすこととなる。この抑留生活を書き綴ったものが紹介されたわけだ。

この抑留生活、まともな生活ではなかった。食事にも事欠き、栄養失調となる。さらにこれが病気にもつながることに…。脚気や壊血病になる人が増え、収容された外国人の数割が死んだという悲惨なものだった。ただ横浜にのこった母と弟は、空襲でも生き残ることができたこと、そして彼らに接した日本民間人が極めて親切だったことも綴っている。

*NHKクロ現の情報
タイトルは『ある日、私は「敵国人」にされた』。イタリアの著名な作家ダーチャ・マライニさんの話である。ダーチャが日本で暮らし始めたのは、2歳(1938年10月)。アイヌ民族を研究する父フォスコに連れられてやってきた。父は北海道大学で研究所助手を務め、1941年春まで札幌で暮らしたと言う。

父は京都大学で講師の職をえて、京都へ引っ越しする。12月8日に開戦となっても、一家は変わらず平穏に暮らしていたようだ。ところが1943年9月イタリアは連合国に無条件降伏したことで状況は一変する。イタリア北部に成立したファシスト政府に従うのであれば、日本の同胞とみなされたが、反ファシズムであれば敵となったのだ。父はファシスト政府を拒否したため、一家は敵国人とみなされ、抑留所送りとなった。

荷物をまとめたが、返されたのはスーツ1個だけだった。ここからが先に述べたデュア親子と同じこととなる。とにかく食料がないのだ。住宅環境も悪く、どんどん体が衰えていったと言う。原因は支給されるはずの食料や物資を管理していた警察官が着服していたのだ。

しかし、1945年5月空襲が厳しくなると山あいの寺に移送されたと言う。ここでの生活は、周りの日本民家人が親切だったという話。「この寺の人たちは家族のようだった。政府とは真逆の対応だった」と話している。これには救われた思いがした。

*外国人抑留者の財産!
1941年12月22日「敵産管理法」が制定施行された。この敵産管理とは、没収ではないが、終戦まで強制管理する制度である。しかし実態は、抑留者の管理に関わる費用と対外資産に対する担保としたようだ。米国で暮らした日系人も強制収容所に入れられ、すべての財産を没収されている。一見するとまだマシのようだが、実態は没収に近いものと思われる。

米国日系人の職業は、一般労働者や商店主がほとんどだった。一方、日本に暮らした外国人は知識人や実業家が多かったようだ。そのため、その財産総額は、いまの金にして1兆円近くなると思われる。このほとんどを返却していないが、いまだに請求されないところを見ると、戦後のドサクサで諦めたのかもしれない。

*まとめ
今まで米国において日系人への仕打ち(強制収容)には憤りを持って見ていたが、日本でも全く同じことをやっていたということがわかり驚いた。一市民の目から見ると、どうにもやり切れない気持ちになる。これも戦争の実態のひとつとみて良いだろう。一つ救われたのは、日本の民間人の優しさ!極限の生活のなかでも、助け合いの心を持った人たちがいたということだ。

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