はじまり

文章を書くにあたって、土佐日記の冒頭のような冒頭を書きたいと思ったものの、そこまで秀逸かつ端的な冒頭文が思いつかないまま書き始めた。

と、土佐日記を取り上げたものの、学生時代に教わったはずの「なぜ紀貫之は"それ"から土佐日記を書き始めたのか」という知識が収納される記憶の引き出しがどこにあるか分からず、ただ土佐日記の冒頭が"それ"であったという記憶のみが残っている。

学生時代はそれなりに勉強をしてきたつもりではある。
中学時代までは"分からないことが分かることが楽しい"、"学んで褒められることが嬉しい"という気持ちで勉強をしていた。

そんな頃、隣のクラスの教師から「今あなたたちが受ける授業の内容自体は将来役に立たないかもしれない。でも、学ぶという行為、過程はあなたの糧になる。」と説明され、衝撃を受けた記憶がある。勉強嫌いなクラスメイトはその話を聞いて「将来役に立たないなら意味がない」と勉強しない理由にしていた。

一方、私は学ぶ理由、その説明が腑に落ちた気がして、それならば、と以降高校大学と諦めずにそれなりに学び続けることができたと思う。
(ここで留意してほしいのは、あくまで学ぶことを諦めなかっただけであり、決して結果として何かを残したわけではないことである)

確かに今になるとあの頃学んだ関数や公式は社会に出てから使った試しはないし、土佐日記の冒頭がどのような経緯で書かれたのかの知識が無くても何も困らない。
授業で教わった知識が定着していなくても、Excelに計算式を入れれば勝手に計算してくれるし、分からないことを検索欄へ入力すれば答えへ導いてくれる。

それでもやはりあの頃学ぶことを諦めなかったからこそ、考えること、分別をわきまえること、がそれなりに身についたのではないだろうか。
何よりも思慮を巡らせ面白いと感じられるものの幅が広がっているように思う。

もちろん、私ではない人生を私は歩んだことがないので、他人と比べて、面白いとして捉えられる物事が多いのかは分からないが。

何が書きたかったのかよく分からなくなってきたが、私はこれからも学ぶことを決して諦めずに生きていこうと思う。

そして、思慮を巡らせ、溢れる何かを取り留めのない文章として残すことができればいいなと思う。

いいなと思ったら応援しよう!