大学生活の意義
私は大学生活の意義を孤独の始まりにあると考える。
小中高は多少の孤独がありながらもシステムに乗っかって、親の助けを借りていればどうにか暮らしていけたというのが例外はあれど一般的な認識であると思う。
しかし、大学生となるとそうはいかない。何しろ成人の始まりでもあるからだ。
成人というのは孤独なものである。何をやるにしても自分に責任が付きまとい、社会からは自己処理の要請が聞こえる。誰かを頼っても相手にされないことも多い。
この成人という肩書は死ぬまで続く。
しかし、そうは言っても悪いことばかりではない。
そもそも自分という存在は孤独なくして成熟しない。
自分で考え自分で行動し、時には楽しく、時には悲しい思いをする。
そうやって自分という存在の性質がわかってくる。
自己の性質がわからないと自分の人生を生きることができない。
自分の人生を生きていないというのは血のにおいがしない。
味わいのある人生にするためには自分の人生を生きなければならない。
このような観点から私は大学生活の意義を孤独の始まりにあると考える。
ではどうすれば孤独という荒波を軽やかにサーフィンできるのか。
単刀直入に言えば孤独に向き合うことである。逃げてはいけない。助けを求めてはいけない。
孤独ということを自覚し認める。そしてあくまでも荒波であって一筋縄ではいかないことを認める。
そこから始まる。
何度も孤独に溺れ落ち込むこともあるであろう。
しかしそうすることで慣れていく。自分や世界がわかっていく。
世界を知ることは自分を知ることにつながる。
自分の性質を知るとはいっても自己ばかり見つめるのではなく視野を広げて世界をも見てみなくてはならない。
世界というのは周りの人々も含まれる。
また、見るだけではなく全身の五感で感じることが大事である。
そうでないと右から左に流れてしまい、血肉化されない。
つまり人とかかわることも大事なのである。
一見矛盾しているように思えるが、この時孤独を前提に人とかかわっているのであり、助けを求めているわけではないことに注意していただきたい。
孤独を生きる過程として人とかかわるのである。
こう考えるといかにも人を自分に都合の良い道具のように扱っていると感じる人もいるかもしれないが、そうではない。
私が言うのは、人は誰もが孤独の荒波をサーフィンしており、そっちの調子はどうだいというようなかかわりである。
ここまで抽象的なことを述べてきたが、つまりは自己の問題を自己で処理していければよいのである。
処理できない苦しみも含めて処理していくのである。
具体的な方法はひとそれぞれ異なる。孤独を感じる程度などが異なれば趣味趣向も異なるためである。
なのでその点については各自が考えていくしかない。
余談であるが、私は大学生活の意義はこれだと決めたくないというのが本音だ。
大学生活の意義は大学生活であるといいたいほどだ。
なぜかといえば、大学生活という大きな袋の中から一要素を取り出してじろじろと大切に扱うと、そのほかの数えきれない要素を見落としがちになるからだ。
その点に注意しつつ大学生活を謳歌できれば何よりである。