於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました③
田宮於岩さんが亡くなったのは寛永十三年[1636]です。生れた年は分かりません。夫の伊右衛門は田宮家の二代目で寛永十五年[1638]に亡くなっています。
初代の田宮伊右衛門は元和八年[1622]に死んでいます。また三代目の伊織は延宝八年[1680]に死んでいます。
三代目の死んだ年と於岩さんの死んだ年は四十四年開いています。
もしかしたら於岩さんは若くして亡くなったのかもしれません。仮に1600年頃の生まれとすると、関ケ原の合戦の頃になります。
慶長元年[1596]、本町一丁目で、家康は後藤庄三郎に命じて金貨の鋳造をさせます。江戸の金座の始まりです。現在の日本銀行のある場所です。
慶長三年[1598]八月十八日、豊臣秀吉が死去しました。その二年後の慶長五年九月十五日に関ケ原の合戦で東軍が勝利します。
その年多摩川に六郷橋が架かります。そして翌年から五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州道、日光街道)の整備を始めました。六郷橋ができたので、東海道を芝筋に移しました。
慶長八年[1603]二月十二日、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が始まります。この頃の江戸の人口は推定で六万人だそうです。
そしていよいよ江戸城大改造工事が始まります。慶長九年[1604]六月、幕府は江戸城大普請計画を発表。八月、金子千百九十二枚プラス五両、両にして実に一万千九百二十五両の補助金を交付して、諸大名に工事用の船の調達を命じました。
工事を始めるために江戸前島とか外島とか呼ばれていた豊嶋洲崎を埋め立てて掘割を作ります(堀の部分だけ残して埋め立てるわけです)。木材、石材などの建築資材を船で江戸城に運ぶためです。
日本橋もこの年に完成しました。この橋は五街道の起点となります。
慶長九年二月、五街道に一里塚を置きます。
慶長十年[1605]秀忠が二代将軍になり、家康の大御所政治が始まります。
慶長十一年[1606]築城の名人、藤堂高虎が城の縄張り(土地の設計)をすることに決まりました。
江戸築城を御手伝いする大名たちは自ら指示して、伊豆から石材を運び込みました。三千艘もの石船が伊豆と江戸を往来しました。
普請にかかわる大名の屋敷が必要ですが土地がありません。神田山を切り崩し、浜町から新橋付近までを埋め立てました。加賀町、尾張町、出雲町など受け持ちの大名の出身地が町名になっています。
また日比谷入江も順次埋め立てられていきました。城を拡張するのも目的の一つですが、城のすぐそばに入江があると、かえって防衛上問題があるのです。太田道灌の時代と違って、大型帆船も大砲もありますから。
道三堀の周辺は船の運送業や材木、石材を扱う男ばかりが集まる町でした。そこに目を付け、道三堀の北側に二十軒ほどの遊女屋ができていました。京の遊郭に倣い柳町と呼ばれていました。
ここを武家地にするために慶長十一年に京橋の辺りの蘆沼を埋め立てて移転させられました。柳町の地名も移りました。
江戸は飲料水の確保が難しい土地でした。江戸城の東側は海を埋め立ててできた土地なので、井戸を掘っても塩水が出るばかり。西の台地は地盤は固いのですが、川が少なく田畑も作れないので、せいぜい牧場があるだけです。駒沢とか駒場とか駒留とか高田馬場などの地名でそれが分かります。
そこで赤坂川の一部をせき止めて、溜池を作りました。これは飲料水になるだけでなく、汐留の役割と防衛をかねていました。溜池から出る水は外濠を作って流します。
溜池は今では埋められて外堀通りになっていますが、かつては外堀通りの溜池交差点から、赤坂見附あたりまでありました。
慶長十二年[1607]千鳥ヶ淵を整備し、半蔵濠を完成させました。また城内の石垣工事が終了して、天守閣や本丸の建設が始まりました。
家康の隠居城の西丸の建設は慶長十六年[1611]より始まり、翌年に完成しました。
つづく