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豊島氏の滅亡と伝説(3)
江古田原古戦場━━中野区
文明九年[1477]四月十三日、太田道灌は豊島氏の城を落とすため、江戸城を出立した。練馬城に向けて矢を射かけ、城下に放火して、すぐに軍勢を引き返す。豊島泰明をおびき出すためだろう。誘いに乗って、泰明勢が追ってきた。豊島泰経も石神井城を出て太田軍を追う。
翌十四日未明、両軍は沼袋から江古田あたりで合戦になる。
なぜ、道灌の方から仕掛けたのか。それは豊島氏の支配した場所が、山内上杉氏と太田道灌の二大拠点、川越城と江戸城の間を分断していたからである。
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google map
豊島勢は所沢道(現、旧早稲田通り)を通り、江戸道(現、新青梅街道)を通って、中野区と新宿区の境辺りで戦闘になったのかもしれない。そして、太田勢に押される形で丸山あたりまで戦場になったのではないか。
というのは、その辺りに点々と戦死者を葬ったとされる塚があったからである。
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江古田原古戦場の位置
Microsoft.Zenrin map
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google map
それらの塚は、現在一つも残っていない。すべて宅地造成や道路拡張建設などで壊されてしまった。関東大震災以降、復興の為に都心から郊外に住宅地開発を進めたためである。
その辺りを歩いてみた。
まず哲学堂公園の角の辺りに四つ塚があった。四つの塚が並んでいたらしい。
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ここは明治四十年ごろ、人骨や武具が出土したという。金網の向こうは
野球のグラウンドがあるのだが、昔は樹木がもっと茂っていて角の所に土が盛ってあった。塚の面影を残したのだとか。
しかし、今は木も伐られ、整地されてさっぱり平らになってしまった。きっともう、ここに塚があったこともきれいに忘れられたのだろう。
ちなみに平成元年[1989]11月に撮影した写真がこちら。
![](https://assets.st-note.com/img/1685606929908-RyFAMSBQBQ.png?width=1200)
哲学堂東交差点
そこから西へ歩き、妙正寺川と江古田川の合流するところにある公園内に、江古田原沼袋古戦場の碑がある。
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その奥の木立ところが公園になっている
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さらに新青梅街道を進むと、丸山塚公園がある。名前に塚とあるが、公園内に塚らしきものは何もない。公園の片隅に豊島二百柱社の祠がある。昭和四十九年[1974]に有志により建立された。その碑文を読むと豊島塚なるものがあったとか。
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戦で死んだ人々を祀る
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公園のすぐそばにあるマンションのビルとビルの隙間に延命地蔵が祀られている。ここは西武新宿線沼袋駅前から新青梅街道にかけてある商店街のはずれになる。
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この辺りにあった金塚を昭和初期に区画整理した折に壊したところ、リヤカーで三杯分の人骨がでたのだとか。その後近辺で不幸なできごとが続いたので、祟りだろうという噂になった。そこで地蔵を祀って供養することになったのだという。
今回は行かなかったが、野方四丁目の住宅街に黒んぼ川のお地蔵さんと呼ばれる庚申塔がある。そこにもかつて塚があったらしい。そして昔は化け物がよく出る場所だったという。これも塚の祟りと思われて、供養のために庚申塔がたてられた。
平成元年の写真がこちら。
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黒んぼ川のお地蔵さん
グーグルストリートビューで見てみると、周りの景色は変わったが、今も同じところに立っている。
環状七号線と新青梅街道が交わる丸山陸橋付近にも大塚とか狐塚とか呼ばれる塚があったらしい。大震災の年に地ならしされて住宅地になった。その時、刀などが出てきたというが、散逸してしまった。近所の農家で鉈の代わりに使われていたこともあったという。
その他にも、いなり塚、蛇塚、金井塚などあったというが、現在は消滅している。
塚をめぐって祟りがあったとか、狐に化かされるとか怪しげな話が昔はあったが、今ではそれを知る人はほとんどいない。歴史にまつわる怪談を語るには何がしかのモニュメントなり記念品なりが必要なのだろうか。それが消滅した今は、怨念の威力も衰えてしまうらしい。
祟りがあろうが、人骨が出ようが、生きている人間には開発の方が大事。信じない人には何ものも無意味なのだろう。