呪術都市江戸④
「鬼門」「裏鬼門」の方角に寺社を置くことで江戸城は守られていた。しかし、それらの寺社には別の役割もあったのではないか。
全ての道は江戸に通ず?
前回、増上寺が裏鬼門を守護するといいながら、実際は南に寄り過ぎている。むしろ、元々あった麹町の方が裏鬼門に近いと書いた。
増上寺が芝に移転した理由について『増上寺史』によると、そこが四神相応の地形だからという。
すなわち、本堂の後ろに円山、観音山、地蔵山があり、これが玄武にあたり、左の桜川が青龍で、右に京へ向かう東海道があってこれが白虎、正面の江戸湾が朱雀なのだという。
これは江戸城の四神の説明と同じで、方角が90度転倒している。(本来北にあるべき玄武が西に、以下白虎、朱雀、青龍の方角もずれている。)方位を重視する四神相応の思想からするとおかしい。
一方、『増上寺史』は、裏鬼門のことについてはふれていない。増上寺は裏鬼門封じの寺ではないのだろうか。
鬼門、裏鬼門を護っているとされた浅草寺、神田明神、寛永寺、日枝山王神社、増上寺には、それとは別の役割があるのではないか。
江戸は主要な街道が集まる場所である。東海道、奥州街道(日光街道)、中山道、甲州街道、水戸街道だ。その起点は日本橋である。
そしてこれらの街道は、上記の五社寺の前を通るのだ。
日枝神社だけは街道から少し離れているが、明暦の大火(振袖火事)の後に現在地に遷る前は、甲州街道のわきにあった。実は増上寺が最初にあった場所も、最初に日枝神社があった場所に近くにあった。それをわざわざ東海道筋に移転させている。そして、日枝神社を除いて、中心部から離れた場所にある。
江戸城のまわりに家臣の家屋敷を配置するため、寺社はそれより外に移転させたのだが、この大事な鬼門、裏鬼門の寺社の役割はそれだけが移転配置の理由ではない。
これは各街道の防御の役割をこれらの寺社が担っていたということではないだろうか。特に東海道と奥州街道は、西国や東北の敵にたいしての防衛上の砦になるのではないか。
風水師の御堂龍児氏はこれを「地政学的なポイント」であると言い、「敷地が広いので、兵を入れ、陣を張ることができる。こういう地勢、政治的なポイントを読むのも地理風水の基本」という。
日枝神社だけは城に近いが、甲州街道は半蔵門から四谷大木戸にかけて旗本、御家人の居住地で、軍事的の防備は固いのだ。
実は神社のある星が岡は、中世の城跡だという。確かに島のように独立した丘なので、もしかしたら出城のような使い方もできるかもしれない。そこまで考えての配置だったかは、確かではないのだが。
しかしもしこれらが真実なら、家康または天海は、宗教施設にカムフラージュした軍事施設を配置していたことになる。戦国時代を生き残ってきた者の、常にある危機意識の備えなのだ。
今回は短めですが、ここまで。
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