ドラキュラ ノート(3)
デメテル号と黒い魔犬
ウィットビー(其二)
ウィットビーの図書館でドラキュラを知ったストーカーは、ここをドラキュラがイギリスに初上陸する地に決めた。
そして、ここを最初の犠牲者ルーシー・ウェステンラとその友人のミナ・マリーが訪れる。ミナの目を通して描かれるウィットビーはそのままストーカーが見た風景なのだ。
筆者はここに行ったことが無いので、ネット上にある画像を見て「ああ、こういうところなんだ」と確認するばかりだが、ミナやルーシーが歩いた石の階段や、ウィットビー修道院の廃墟、セント・メアリー教会に隣接する古い墓地は、100年以上前にストーカーが訪れたときと、ほとんど変わっていないだろう。
物語の中で、ルーシーとミナは教会の庭にあるベンチに座って、墓石などを眺めながら日記を書いたりしている。そばには地元の老人が三人、暇を持て余している。
その老人の中で元船乗りのスウェールズ爺さんがミナに声をかけるのだが、このスウェールズはストーカーが実際に墓地であっているのだ。
もっとも、爺さんではなくて女性、しかもストーカーの時代より100年も前に亡くなっている。つまり、墓石に刻まれている名前がそれだった。
墓石に彫られた碑文をミナが読み上げるシーンが作中にも出てくるが、それはストーカーの体験が元になっている。
ウィットビーの伝説に興味があったミナがスウェールズにその話をすると、老人はヨークシャー訛り丸出しで「呪いだの、ヒラヒラするだの、幽霊だ、化け物だと、ありゃみんな、うろたえた女の目の迷いよ。(平井呈一訳)」と否定する。
「幽霊だ、化け物だ」の部分は原文だとan 'bou-ghosts an 'bargustsだが、「バーゲスト」とは「恐ろしい幻影」という意味で、ヨークシャー地方の民間伝承では「円盤のような燃えさかる眼をもつ大きな黒い魔犬」のことだという。
ストーカーはウィットビーの図書館でフランシス・K・ロビンソンの『ウィットビー周辺で使用された語彙用語集』から、170語あまりの単語をメモしているが、その中で「バーゲスト」とは「人間や動物の姿をとるおぞましい怪物(平松洋訳)」と説明されていた。
スウェールズ老人が嘘話だ、絵空事だと否定した「バーゲスト」は、このあとドラキュラを乗せた船がウィットビーの海岸に座礁した時、甲板から飛びだしてそのまま教会の下の断崖を風のような速さで駆け上り、姿を消した謎の怪犬の姿で現実の世界に現れるのだった。
それきり、犬の姿は消えてしまう。ただテイト・ヒル船着き場の石炭商の飼い犬のマスティフ種の大型犬が、路上で喉を食い破られ、横腹を爪でえぐられて死んでいるのが発見される。
小説の中では何も説明されていないが、読者は船から飛び出した「バーゲスト」が伯爵の変身した姿と理解するだろう。
ドミトリー号
ドラキュラ伯爵がイギリス渡航に利用したデメテル号にもモデルがある。それはロシア船ドミトリー号。
ロシア(現エストニア)のナルヴァ港から出帆した120tのスクーナー船ドミトリー号は、1885年10月24日の夜、嵐のためにウィットビーのテイト・ヒル・ビーチに座礁した。幸い乗組員は生存していた。
当時フランク・メドウ・サトクリフが座礁したドミトリー号の写真を撮影している。
ストーカーはこの事故について、地元の沿岸警備隊のウィリアム・ペザリックから話を聞き、沿岸警備隊の日誌のコピーを見せられた。
ストーカーはこの話を元に、ドミトリー号をデメテル号に変えて作品に取り入れた。また、出港地はナルヴァ(Narva)からブルガリアのヴァルナ(Varna)に変更した。ドミトリー号の乗組員は無事だったが、デメテル号は全員ドラキュラの犠牲になった。
また、ドミトリー号の積荷は「銀砂」のバラストだったが、デメテル号の積荷はドラキュラ城の「穢れた土に眠る悪魔の息子」だった。
『ドラキュラ百年の幻想』で平松洋が面白いことを書いている。
銀の弾丸といえば狼男退治の武器として有名だ。銀はその光沢から月と関連付けられ、多くの民族の間で月の象徴になっていたという。
月の女神ディアナの象徴は銀である。錬金術でも銀のことをディアナまたはルーナと呼ぶ。
このことから、銀(月)は、満月の光で変身する狼男の魔力を封じる力があるとされたのだ。
銀の魔力は、狼男ほどではないが吸血鬼に対しても効力があるとされた。
月の女神は狩猟の神でもある。アルテミスが有名だが、アルテミスの冥界の姿であるヘカテーも地獄の猟犬を連れているという。
その猟犬の姿は暗黒のように黒く、目は火のように燃え、口から炎を吐くという。これはあのバーゲストとそっくりではないか。
ドミトリー号が運んでいた月を象徴する銀砂は、ドラキュラ城の地下(=冥界)から掘り出した土に置き換えられ、デメテル号は冥界の月女神ヘカテーの猟犬バーゲストをイングランドに運んだのである。
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