偽書・シオン賢者の議定書とは⁇(3)
『プロトコル』出所と作者の謎
クルーシュヴァン=ブトミ版もニルス版も、『シオン賢者のプロトコル(議定書)』を誰から入手したのか、はっきりしない。ただ、フランス語の文書を翻訳したと「軍旗」は伝えているので、元はフランスで書かれたと思われる。
『プロトコル』の作者は誰なのか。そして、原本がつくられたのはいつなのだろうか。
1934年、スイスのベルンで『プロトコル』の真贋をめぐる裁判があった。
原告証人として、元メンシェビキのメンバー、セルゲイ・スワチコフら亡命ロシア人が立った。
スワチコフは1917年、帝政廃止の臨時政府の時期に、ロシア帝国秘密警察(オフラナ)の海外情報活動清算のためにパリ支局に派遣され、アンリ・バントに会う。
アンリ・バントはアルザス出身のフランス人で、1880年からオフラナのエージェントだった。
バントによると、オフラナのピョートル・イワノビッチ・ラチコフスキーの命令で、バントが『プロトコル』を偽造したという。
この証言は極めて重要である。
次に、どういう経緯で『プロトコル』が「発見」されたか、時系列順に追ってみよう。
1890年、ジャン・プレヴァル名義で『無政府とニヒリズム』が出版される。その一部に『プロトコル』と同一の内容があるところから、これは下書き的な文書なのかもしれないという。これにオフラナが関与しているかは不明である。
1895年、モスクワ聖務院検察官、侍従長、枢密院顧問のフィリップ・ペトロヴィッチ・ステパノフは、退役軍人アレクシス・スーホチンから『プロトコル』の写しを受け取った。
ステパノフがスーホチンから受けた説明によると、このコピーは知人の女性(名は言わなかった)がパリに滞在中、ある「ユダヤ人の家」から発見された文書を入手したもので、パリを発つ前に密かにロシア語に訳して、持ち帰ったものという。
1897年、ステパノフは『プロトコル』を最初にゼラチン版で印刷したが、これでは読みづらいので、日時、場所、校訂者の名を伏せて活版印刷した。
セルゲイ・ニルスが入手した『プロトコル』の原本は、この活版印刷だという。
ところで、スーホチンに『プロトコル』のコピーを渡したある女性とは、ユリアナ(フランス名ジュスティーヌ)・ドミトリエフ・グリンカという説が有力である。
彼女はロシア外交官の娘で、皇后マリア・アレクサンドロヴナの女官も務めたことがあった。パリでは1881年から82年にかけて、亡命ロシア人テロリストのスパイと密告という仕事をしていたこともある。
その後もロシアとフランスを頻繁に行き来している。
1902年4月7日の王党派系新聞「ノヴォワリエ・ウリミア」の記事で、記者のメンシコフはある貴婦人(グリンカ婦人とみられる)から、『プロトコル』のフランス語原本はニースにあったが、あるフランス人ジャーナリストが盗み出して彼女に託したそうだ。彼女はそれをロシア語に翻訳したという。
因みに、ユダヤ陰謀説では、ニースは昔からユダヤの秘密首都なのだ。
歴史家ノーマン・コーンは、ユリアナ・グリンカとステパノフが『プロトコル』の最初の刊行に重要な役割を演じていたと断じていいだろうという。
以上をまとめると、『プロトコル』が作成された年は1894~99年。もっと、絞り込むと、1897年か98年のいずれかといってよい。
また、内容にフランスの内政問題が出てくることから、作成された場所はやはりフランス国内らしい。
発見された場所をぼかしたり、手に入れた人物の名がわからないのは、もちろん『シオン賢者』という闇の組織の存在をほのめかすためであって、「あるユダヤ人の家から発見された」とか「シオンの中央事務局秘密書庫から持ち出された」などという話はすべて嘘である。
ユリアナ・グリンカはパリのオフラナの誰かからこの文書を渡され、スーホチンに渡したのだろう。ただ、彼女自身、どこまで真実を知っていたのかは不明だ。彼女も文書の真贋は知らないのかもしれない。
つづく
主要参考資料
シオン賢者の議定書 ユダヤ人世界征服の神話
ノーマン・コーン著 内田樹訳 ダイナミックセラーズ
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