於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました①
以前、『四谷怪談の現場を歩く』という駄文をnoteに載せるため、資料を読んでいたところ、怪談のモデルになった実在の田宮於岩さんが、寛永十三年[1636]に亡くなったと分かりました。
芝居の『東海道四谷怪談』は江戸時代も後期の作品なので、風俗もその時代に合わせています。私たちが何となくイメージする江戸時代の風俗とそれほど変わらないでしょう。人々の着物や髪形。江戸の町の風景。武士や町人の言葉遣い。映画やテレビの時代劇の江戸時代のイメージです。
でも、寛永十三年というとかなり江戸も初期です。三代将軍家光の時代で、家康を祀る日光東照宮が完成した年です。翌年には島原の乱がありました。まだ、完全に鎖国も完了していなかった時代です。
そこでふと考えました。
「もしかして、於岩さんが生きていた頃は、江戸の町もまだ完成していなかったのでは?」
完成された大江戸八百八町になる前の、開発途上の江戸の町を於岩さんは歩いていた。
江戸がどんな風に造られていったのか、調べてみたくなりました。
最初に江戸を開発したのは秩父党の武士団である江戸氏で、十一世紀の末頃といわれています。平安時代の末です。麹町台地の突端の日比谷入江に面した場所に館を築きました。
やがて室町時代になり、江戸氏が衰えた頃、太田道灌が登場します。長禄元年[1457]道灌は改めて江戸城を作り直します。江戸城は「関東に甲たり」といわれた難攻不落の城になりました。実際道灌がおさめた三十年ほどは、道灌が戦に強かったこともあって、江戸は平和都市として、応仁の乱で荒れ果てた京都からも文化人が何人も訪れ滞在していまた。
また、上の地図にあるように江戸城下には船が停泊するのに適した入江や、ピンクで示した道が通っており、江戸城下の前島の高橋という現在の常盤橋のあたりは、物資の集積地としてにぎわったそうです。
道灌が主君の扇谷上杉定正に暗殺された後は江戸城は扇谷上杉氏のものになりましたが、それを伊勢新九郎長氏(早雲)が奪ったのは大永四年[1524]です。以降江戸城は北条氏の城代が管理していました。
天正十八年[1590]四月、豊臣秀吉は北条氏の小田原城を包囲しました。家康も秀吉に加担しています。家康は江戸城を護っていた北条方の川村兵衛大夫を説得して降伏させます。
六月下旬には秀吉は江戸城を家康の居城にしようと決めていたようです。七月に小田原城が落城し秀吉が入城すると、さっそく徳川氏は北条氏の支配地に転封になりました。その代わり、それまで徳川氏の所領だった土地は取り上げられました。
父祖代々の土地や戦をして苦労して広げた領地をとりあげられることは、徳川の家臣たちにはショックだったでしょう。でも、家康はさして不満を言わずに従ったそうです。
七月十三日秀吉の命が出てすぐに江戸に向かい、十九日に遅れて到着した秀吉を迎えます。奥州攻めのためです。そして二十日秀吉の軍勢が奥州に向かうのを見送りました。
家康が正式に江戸城に入ったのは八月朔日のことです。その時には、もう江戸の都市改造計画が始められていたというから驚きです。もしかしたら、六月に江戸城を開城させた頃から、家康の頭の中では、江戸を拠点とした天下取りの計画があったのかもしれません。
家康が引っ越してきた頃の江戸城は前時代の忘れ物のような、みすぼらしいものだったようです。現在の皇居に見られるような石垣は一か所も無くて、すべて土井で囲まれ、竹木が茂るばかり。ということは塀すらなかったということでしょうか。
建物も屋根は板葺きで民家も同然。台所は茅葺で田舎家のよう。玄関の登り板は舟板の転用で、内部は土間だったと言います。そんな貧相な館の建て替えは後回しにして、家康は本丸や西丸の工事から始めさせました。
つづく
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