国民審査と向き合う

分母を意識するという当たり前のことに気付かされた記事でした。国民審査では✖️と白票だけではないこと、棄権するという選択に対する理由付けも説得的です。

ところが、棄権したにもかかわらず、職員のミスで投票箱に入れられてしまったという報道がありました。結果的に有効票として、白票扱いになったようです。

なんだかなあと切なくなりました。
投票所という厳粛かつ複数の職員に見守られる中で、棄権を申し出る心理的ハードルを乗り越えたのに、不憫すぎる結果です。

もっとも、全国同時に実施される共通テスト、かつてのセンター試験や共通一次でも、毎年のようにミスは出ています。まして、異なる制度を同時に実施しているのですから、よりミスが発生しやすいです。

そこで、自ら無効票を投じることにより、棄権と同じ効果を発生させることができるのでは?ということに思い至りました。

そのためには、棄権と同じように無効票も分母に組み込まれないというのが前提になります。

まず無効票については、✖️以外の事項の記載をすれば済むため簡便です。

問題は、分母の定義についてです。同じく上記サイトには、次のように書かれています。

無効票も分母には含まれない、としか読み取れないような書き方です。

根拠規定の明記がないためまだ自信はありませんが、投票所に行く時間になってしまいました。

小選挙区の投票が終わり、比例と国民審査の投票用紙を受け取ったタイミングで、近くにいる職員に質問してみました。

結果としては、棄権と同様、無効票も分母に組み込まない(含めない)という回答でした。

棄権という心理的ハードルを乗り越えなくても、自ら無効票を投じることで、同じ効果を発生させることができるようです。


冒頭の記事に登場した吉田弁護士は、当然知っているはずです。

でも、自ら無効票にするという行為は健全でないという価値観や、同時に実施される衆院選挙に何らかの影響が出てしまうことに対する懸念など、さまざま考慮した結果として、棄権という選択だけを挙げたのではないかと考えました。国民の代表を選出する国政選挙に比べたら、国民審査という制度は劣位します。それでも、棄権という選択の存在を広めることで、国民審査の役割を考えるきっかけにはなります。最高裁の大法廷で弁論をしたような弁護士ですから、絶妙なバランス感覚を持っていると思います。

ただ、投票所を離れたあと棄権した投票用紙については、適切な取り扱いが担保されていないように感じてしまいます。また、人口の少ない地域での投票所では顔見知りがたくさんいるはずです。投票用紙を投票箱に入れないという調和を乱すような行為は、なかなかできないかもなあと想像してしまいます。

最高裁の裁判官を審査するという制度自体は、極めて重要です。でも、法曹関係者以外は名前すら初めて聞く裁判官ばかりだというのが実情だと思います。

分からないのは周知していないせいだと、全員に✖️を付けているという意見も理解できます。

今回の国民審査でも私は棄権せず有効票として投票しましたが、期日前投票をしたパートナーは棄権チャレンジに失敗しました。都内で誰も知り合いがいないにもかかわらず、なんだか言い出せず大人しく投票してきたとのことでした。

かつて最高裁裁判官だった菅野弁護士の記事があります。裁判官としての誠実さが伝わりました。国民審査された当時を振り返っていますが、自身の罷免率は気になったようです。

総務省のサイトで、沖縄県での罷免率の高さを調べたのでしょうか。

上記の朝日新聞から引用します。

菅野さんは「国民の皆さんに、非常に真面目に審査をしていただいたと思う。結果の数字には国民の意思が表れるし、裁判官にも届いている。『どうせ罷免にならない』と思わず、自分なりの判断で投票してほしい」と話している。(遠藤隆史)

とても良い記事だなあと思います。

青森県で棄権をされた方も、きっと真面目に真摯に向き合っていたのだろうなあと想像します。

次回の衆院選までに、無効票が棄権と同じ扱いになる(分母に含まれない)とする根拠規定なども調べてみようと思います。


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