カフカ短編集:喩えについて
賢者の言うことは喩えばかりで、暮らしの役に立ちやしない。日々の暮らしの現実は、そんな喩えとは無縁なのに、と、多くの人が不満を抱く。
たとえば、賢者がこう言うとしよう。
「かなたへ赴け」
かなたの場所は特定されていない。行くだけの甲斐のある場所として言われているのでもない。賢者のいう「かなた」は、そうではない。お伽話のようなもので、それがどこかは誰にも分からず、詳しい説明もできず、その結果として、何の役に立たないような「かなた」でしかない。
こういった喩えというものは、共有できないものは理解できないということを伝えようとしているだけかも知れない。しかし、そんなことはもう私たちもよく知っている。私たちが日々苦労しているのは、もっと別のことなのだ。
これを受けて、ある人が言った。
「どうして歯向かうの? 喩え通りにすればいい。そうすれば自分もまた喩えになる。日々の苦労からは解放されるだろう。」
もう一人が言った。
「賭けてもいいけど、それだって喩えだね」
言われた側は言った。
「賭けは君の勝ちだ」
相手が言った。
「残念ながら、喩えのなかで勝っただけさ」
言い出した人が言った。
「いや、違う。君は本当に賭けに勝った。喩えのなかでは負けている」
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難解な短編である。
「かなたへ赴け』
かなたとは何処なのか?
自分が行きたい地、場所なのか。
賢者と2人の人物の会話
A「どうして歯向かうの? 喩え通りにすればいい。そうすれば自分もまた喩えになる。日々の苦労からは解放されるだろう。」
B「賭けてもいいけど、それだって喩えだね」
A「賭けは君の勝ちだ」
B「残念ながら、喩えのなかで勝っただけさ」
A「いや、違う。君は本当に賭けに勝った。喩えのなかでは負けている」
暫定的に
Aを考える人
Bを考えられなき人
と決めてみる。
「考える人」は、賢者の言葉を素直に聞き入れ、自分の力で「かなた」について考え、それが何処なのか、自分なりの正解にたどり着いているのだ。だからこそ、日常の苦労、つまり不平不満の世界から解放されているのだと思う。
この物語自体が喩えであり、正解も示唆も含まれていない。
かなたとは何を何処を指し示しているのか。
自分の行きたい、行きたかった道ではないのか?
自問自答する
まだ見付からない【かなた】
久しぶりにカフカを読み
頭を抱えています。
コメント頂ければ幸いです。
絶望名人カフカめ
短編集、寓話集、何たる珠玉の物語を紡ぐのか!
謎を謎のまま突き放す。
今、彷徨っています。