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伊達の歴史 #2 養蚕の歴史
みなさんこんにちは!伊達の歴史を紹介する者です。
福島県の北部に位置する伊達地方の歴史を紹介しています。
第2回目は伊達の養蚕の歴史についてです。
なぜ、伊達地方で養蚕が盛んになったのかなどを解説していきます!
江戸時代以前
日本人は昔から生糸を着物などに使っていました。しかし、日本では生糸をあまり生産していなかったため中国から輸入していました。中国の生糸は品質がよく重宝されていました。
江戸時代初期
江戸時代の初期、幕府は生糸の輸入に制限をかけます。なぜ制限をかけたかというと、京都西陣の高級絹織物が関係しています。
西陣の高級絹織物は中国から輸入された生糸を使用して作られていました。しかし、絹織物の需要拡大、輸入の拡大により大量の「金銀」が海外に流出してしまいました。幕府は金銀の流出を防止するため、国内で生糸を生産することを奨励したのです。
江戸時代中期
それまで生糸の生産が盛んだった信州(長野)や結城(栃木)が大洪水に見舞われ、蚕のエサとなる桑の畑が流されてしまい蚕を育てることができなくなってしまいました。
再起を図るため信州や結城の人たちは伊達地域に出張して蚕を育て始めます。すると、良い蚕種(蚕のタマゴのこと)がとれ、桑も出来が良いことがわかりました。
洪水がきっかけでしたが伊達の蚕種は評判が良く安永2年(1773)伊達地域は幕府より「奥州蚕種本場」の称号を得ました。蚕種本場の称号を得たのは他にも、産地偽装の不良蚕種が出回るようになりそれを防止するためという理由もあります。
江戸時代末期
養蚕国のフランス・イタリアで蚕の病気である微粒子病が大流行してしまいます。そのため日本の蚕種、生糸の需要が拡大します。海外輸出により、伊達地域の養蚕業は一層の盛り上がりを見せます。
明治・大正時代
1866年、霊山掛田地区の安田利作という人物が輸出向けに「掛田折り返し糸」というものを考案し諸国から高い評価を受けました。(掛田折り返し糸については再来週に投稿する文章で詳しく解説する予定です)また、1871年梁川の田口半三郎は約3ヶ月間フランスに滞在し蚕種の販路拡大を試みています
明治期にかけて生糸の輸出量は増え続けましたが、フランスやイタリアの微粒子病からの回復もあり蚕種の輸出量は減少してしまいました。そのため蚕種は国内向けに作られることとなりました。
昭和・現代
戦後、伊達地域の養蚕農家や桑畑、繭の生産量は増加傾向にありました。しかし、昭和50年代ごろから安価な外国産の絹織物や中国の生糸の輸入などの理由で撤退する養蚕農家が増え養蚕業は衰退していきました。
桑畑だった土地は桃や林檎などの果樹畑への転換が進みました。昭和52年(1977)には、県内最大の蚕種生産地だった伊達町から養蚕業は消えていまいました。
現在、伊達地域は桃や林檎、柿などの果物が有名です。
最後に
長い文章になってしまいました。最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございます!
次回は伊達地域で撮影した写真を投稿する予定です。よろしくお願いします!
参考文献
伊達教育委員会(2018)
伊達市文化財調査報告書 第1集 伊達地方の蚕種・養蚕・製糸関連用具