見出し画像

自覚なくLGBT推進運動家となってしまった友人の話 ~誰も悪くないのだ~

本題とはずれるが、私が子供だった頃、同性愛ましてやLGBTなんて概念は巷にまったく存在していなかった。いや、存在はしていた筈なのだが、顕在化されず周囲からないかのように隠されていた。
”ニューハーフタレント”はいたけれど、周りの芸人と差別化を図りたいだけかと本気で思っていた。同性が好きな人間なんて本当に存在しないと心底思って疑わなかった。
当時はそんな異性愛者も多かったのではなかろうか。

まあそんな未熟な社会で子供時代を送ったわけだが、当時私の友人にめっちゃチャカチャカした賑やかおもしろい系の子がいた。彼女は陽キャだった。「うちレインボーめっちゃ好きなんだよねー!!」といいながらありとあらゆる持ち物がカラフルなもので統一(?)されていた。見ていると目がチカチカしてくる。
レインボー好きが高じ、美術の授業でみんなでゴリラを描いた時に、一人だけレインボーゴリラを描いた。私は割とちゃかした。脳内までレインボーなんかと。
だがそれがなぜか美術の先生に(芸術的な意味で)うけて、先生は彼女の作品を大会に応募し、なんと受賞までした。子供の柔軟な発想、ということで評価されてるんだろうけど、実際はレインボーが好きなだけだ。先生は彼女の持ち物みたことないんだろうなってクラス一同思った。
あと、ソース顔の男子が好きだった。(死語?)

おや・・・?

そのころ、海外ではLGBT運動が勃発した。LGBTの人々は、多様性の象徴として、あるものを持ち上げるようになった。

レインボーだった。

メディアで連日報道されるLGBT運動の行列に参加している人々はみなあちこちにレインボーをつけていた。
あれ・・・?この画、既視感があるゾ・・・

「相談したいことがあってね」

みんな(あいつLGBTと化してるけど大丈夫かな?)と内心心配してはいたがなんとなく何も言えずにいた。だって、別に、悪いことはしてないし。そういう話題って、セ、センシティブだし。それと、なんか、陽キャだし。
その後も彼女はいつも通りカラフルな物に身を包み学校でやってきたが、数日後少し悩んだ顔で相談したいことがある、といった。まあみんな想像はついていた。
「なんかさ、うち最近LGBTの運動してる人みたいになってるんだよね」
うん、わかるわかる。
「運動するつもりないのに、たぶん通学しながら街で運動しちゃってるんだよね」
政治活動とか思想とかに絶対無関心な人がそういう状況に陥ってるの、なんか面白いなあ。
「笑ってるじゃん!」

象徴という記号があわせもつ暴力性

なにはともあれLGBTのレインボーカラーという社会の記号には、彼女の個性を曲げる権限も必要性もない。
私はやめなくていいよ!とめちゃくちゃ止めたのだが、彼女はそれ以来レインボーとオサラバしてしまったのであった。主張に反対していないことと、主張するつもりがないのに主張しているかのような人間となることは別物だったんだろう。
そして、彼女から賑やかな色彩が無くなり、目がチカチカしなくなったことは私的には寂しい限りだった。

でも、このようなことは生きている中で結構遭遇する。
例えば一般的な名詞を芸名にしている芸人がいると、芸人じゃない方のそれを検索かけたい時とてつもなく不便とか。周りから嫌われている人、またはオシャレ番長の名を冠している人がいつも同じブランドの服を着ているとそのブランドを着づらいとか。エトセトラエトセトラ。
別に誰も悪くない。それに、そこまで困ってもいない。ただ、もやのように柔らかく、けれどしっかりと私たちを取り囲む、制限というもの。
こういう細かなつみかさねが私たちの社会にはクモの巣のように張り巡らされていて、このしがらみが無い場所を求めて人は旅行をしたり、一人になろうとするんだろうなあと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?