創作という名の憧れ

僕には、人生で憧れを感じた人が一人と憧れるものが一つある。こんな一人語りで申し訳ないがこんなスタートだ。「憧れ」とは、僕にとって基本的に起りえない感情であるのだ。そんな僕が唯一憧れた、いいなと思えた居なくなってしまった友人と憧れにまつわる話。僕は、基本的に70~80点くらいのクオリティーで何でもできてしまうようなやつだ。これは、うぬぼれではなくて事実なのである。よく言えば何でも器用にこなす。悪く言えば器用貧乏だ。そんな僕であるからして物事に飽きることが多々ある。人の2~3倍の密度で集中してしまうのだ。だから飽きるのも人より早い。最近は、若い時ほどすぐ飽きるという感覚は、滅多にないのだが。これは、自身の好きなこと、やりたいことに対する欲求の輪郭が経験を経て掴みやすくなったといえようか。だから一つのことをずっと続けられる人に憧れを感じやすい。素直にいい生き方だと思えてしまう。いなくなった友人もそうだった。上手くいかずに右往左往したときもあったし、上手くいったときもあった。その一つ一つが聞いてる僕でさえ、かけがえのないものだと思えたのだから。きっと本人が味わった味は、極上に違いない。僕が唯一憧れたその友人は、急に音沙汰もなく、まるで最初からそこに存在してなかったかのようにいなくなってしまった。これに関しては、もうどうしようもない。そして創作活動ができる、楽しめる人への憧れは増す一方だった。最近僕の周りで急に創作活動をしている人が増えた。触れてこなかったけれど楽しいというのは間違いないだろう。そもそもハードル高いと思ってしまうのだ。時間もかかるし、創作中に無粋な考えが紛れてきそうだし、なにより時間をつぶす、やりたいことを妨げる娯楽が多すぎるのだ。誰がこんな娯楽だらけの社会になると思ったことだろう。場合によっては、馬に乗って弓を射るとか詩を読んで感慨にふけるなんて生活の方がよっぽどゆたかかもしれない。僕は、最近まで本は消費的娯楽かたまに思うことがあった。結論、消費的娯楽にもなりえるだろうとなった。小説なんかは、考える余地があるにしろ、ただ読んでれば消費的だし、読んで終わるだけならやっぱり消費だ。好きなことにそこまで神経質にならなくてもと言われれば確かにそうなのだが考えたくなってしまうのだ。そして意味を求めたくなる。100点の好きがないから70点の好きをいっぱい作る生活をするしかない。そういう個性なのだ。そこに頑張りたいこと、やりたいことが加わればちょうどいい塩梅なのだ。だから創作活動が日常的になっている人に憧れるし、感心する。ただ、そんなことを考える日々だったが最近は、創作をしてみたい。消費的なことから比率をずらしたいと思えるようになった。そして、文章を書くのは好きだから書いている。そんな感じである。人に何かを伝えることって楽しいんだけど形のある物とは違うからやらなくなると音沙汰がなくなって元の生活に戻る。急にまた消費的な活動しかしなくなるかもしれないし。でも、やっぱり最近思うのだ。人間は、行動してなんぼでしょと。口がわりとうまいと言われる僕だから口だけになるのもなんかしゃくでとにかく言葉として文章を書いている。すなわちこれは、消費的な娯楽生活から脱却する一隻なのである。こんなだらだらした文章に意味を求めるのはやめてくれ。やぼである。

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