エッセイ:愛すべきプロのおばさんたち
先日29歳になった私。
大学生の末の弟からは、「あーもうおばさんじゃん」と言われてしまった。
確かに、数年前の有り余るほどのエネルギーや肌の張りはめっきりなくなってしまったことを自覚している。
あれほどだいすきだったカラオケオールも、ちょっときつくなり、
徹夜した次の日はしっかり休養しないと、鼻の下にだらしない吹き出物がたくさんできるようになってしまった。
最近の若者が夢中になっているというTikTokというものはアプリさえも持っていないが、弟に見せてもらったそれは、大変なスピードで画面が切り替わり、ただでさえとろい私はついていくのがやっとだった。
うん、やはり、着々と「おばさん」に近づいていることは間違いない。
ただし!
私なんかが「おばさん」の仲間入りをするのは、まだまだおこがましいと思っている。
私の中で「おばさん」は愛すべき、そして守られるべき存在であり、
これまで生きてきた歴史や経験を感じさせる気品とユーモアは、
29年ちょっとしか生きていない私なんかには到底、醸し出せないと思っている。
私にはまだまだ、「おばさん」修行が足りない。
ここで私が思っている「プロのおばさん」について、しっかりと定義しておきたい。
どこからどう見てもピチピチの小娘が「25になったよ~四捨五入したら30じゃん、おばさんだよ~」と笑いながら嘆くのとは全くの別物であることを記しておきたい。
<私が尊敬する「プロのおばさん」の条件>
その1 だいたい60歳以上であること
その2 口調はお上品なのにやたらとやかましく、周りの人の注目をつい集めてしまうこと
その3 噂話(結構重めの悪口も含む)が大好きであるが、相手の話が長くなりそうなときにはやんわりと会話を終わらせるスキルをもっていること
その4 根拠のない話でも本当っぽく自信満々に話せること
その5 お友達といることが何よりも楽しく、いつもにこにこと幸せそうであること
私が遭遇するとうれしくなってしまう「プロのおばさん」たちは、だいたいこのようなお姉さま方だ。
幸福度の高そうなおばさんたちがきゃは!と笑いながらお話ししているのが私にはとてもかわいらしく見える。
「プロのおばさん」が集まっている空間というのは、とたんにその場の空気が平和になるような気がする。
私はもともと田舎の出身で、おばさんたちが集まってがやがやと話しているのはごく自然な光景だった。
お茶を飲み、それぞれが大声で話し、そして最後はお土産を渡しあって解散する。
なんて平和だっただろう。
生産性のない話でもいい。
「プロのおばさん」たちが笑っているということが大事なのだ。
ここからは、それぞれの条件について、エピソードとともに詳しく解説したい。
その1 だいたい60歳以上であること
やはり、それなりの人生経験を積むためには、60年は必要だろう。
私なんかが発する言葉と、「プロのおばさん」の言葉は深さが違う。
私ごときが「健康には青汁がいいんだよ!」と言うのは風に吹かれて飛んでいきそうな軽さだが、
「プロのおばさん」から「いい?だまされたと思って、このエキス、ちょっとなめてみて」と真正面から目ん玉を見つめられながら言われれば、「…じゃあ、ちょっといただきます」という気持ちになるというものだ。
口にした後、「実はゴキブリの生命量だけを抽出して煮詰めたやつなんだけど腎臓にいいのよ」と言われても、
なんだか本当に効きそうな感覚になるだろう。
「なんかぽかぽかしてきた!」とまで言ってしまうかもしれない。
殊に健康に関することは説得力と圧が、まったくもって違うのだ。
その2 口調はお上品なのにやたらとやかましく、周りの人の注目をつい集めてしまうこと
つい先日、興奮したトイプードルが「プロのおばさん」のふくらはぎをめがけて一生懸命腰を振っていた。
発情期だったのだろう、それはそれは力強く、「プロのおばさん」にひょこひょこと欲情していた。なかなか見る目のある犬である。
彼の飼い主は「プロのおばさん」のお友達らしく、「あら、いやね、やめなさいっ」と必死にロープを引っ張っていたが、そんな力では止められないほど、彼の気持ちは高まっていたようだ。
切ないほどどうにも止まらない彼の欲望、恥ずかしそうにおろおろする飼い主…
そこで、「プロのおばさん」はどうしたか?
周囲に響くほどの大きな声で「ぃやっ、だめよぉ~!わ、わたくし、バ、ババアですからぁっ!」と叫んだのだ。
道行く人は振り返り、時が止まったようだった。
一人称が「わたくし」であるところはとてもお上品なのに、
自分を「ババア」とへりくだるこの謙虚さ。
「プロのおばさん」の叫びもむなしく、トイプードルの腰は止まることはなかった。
このように、本来お上品な「プロのおばさん」が困ったあげく、よくわからない理由で犬からの好意をお断りしているところは、思わずかけよって助け出したくなるほどいじらしかった。
その3 噂話(結構重めの悪口も含む)が大好きであるが、相手の話が長くなりそうなときにはやんわりと会話を終わらせるスキルをもっていること
私がこれまで出会ってきた「プロのおばさん」は総じてコミュニケーションスキルがずば抜けて高い。
これも、私ごときのアラサーが太刀打ちできるようなものではないのだ。
とにかく会話の引き出しが多い。
相手に合わせてちょうどいい噂話をすることもできる。
雑談がうまいということは、「会話を終わらせる」というのもうまいということになる。
相手の気分を害さず、うまくその場から去るという事に関しても「プロのおばさん」はすんなりやってのける。
先日、地元の日帰り温泉に行ったときのことである。
「プロのおばさん」が裸になりいざ温泉へというときに、
知り合いのおばさんが更衣室のトイレから出てきた。
知り合いのおばさんはお風呂も終わったようでつやつやの顔で、ダウンを着こみ、あとは帰るだけという状態だったようだ。
そこでふたりが会ってしまったからさあ大変。
「プロのおばさん」は裸、かたや友だちはダウンを着ているという、もう面白い構図が出来上がっていた。
ダウンのおばさんはさっそく、すごい勢いで話し始めた。
ダウンのおばさん(以下、ダ)「ほら、私猫ちゃんいたでしょ?」
プロのおばさん(以下、プ)「あー」
ダ「死んでしまったのよ」
プ「あらー大変だったこと」
ダ「もう年だったから、しょうがないって、みな言ってるんだけどね」
プ「それにしたってねー」
さあ、ここから、ダの一人語りになった。もう止められない。
ダは、以下に猫を大事にしていたか、猫がダの家へやってきたいきさつから詳細に語り始めた。
聞くと、ダの猫は娘が拾ってきた捨て猫だったそうで、飼い始めた頃から相当弱っていたようだが、ダが手当てをしてやり、愛情たっぷりに育てたそうである(ダも「プロのおばさん」である。やかましいため、その場にいた全員がダの話を聞いていた)。
もう一度言うが、このとき、「プロのおばさん」は裸である。
一刻も早く湯舟につかりたいはずだ。
タイミングを見つつ、ひそかに足を浴室のほうへ向けているがダの話はなかなか止まらない。
そこで、「プロのおばさん」はどうしたか?
「ダさん、そんなにいいことなさって、あんた天国さ行ける…!」
圧巻である。
私は心の中で拍手をしてしまった。
相手を褒めつつ、長く続いた退屈な話をスパっと終わらせた。
死後天国へ行けるというありがたい予言をしてもらえば、ダの承認欲求は一瞬で満たされるのだ。
その4 根拠のない話でも本当っぽく自信満々に話せること
こちらは「その1」とも重複するが、やはり「プロのおばさん」が言うことはなぜか信憑性があるように聞こえる。
東京の喫茶店で過ごしていたときのこと。
隣のテーブルに二人組のおばさんが座った。
どうやら片方のおばさんは花粉症がつらいようだ。
テーブルにつくなり目薬をさし、鼻声で「今日はすごい、飛んでますね」とつらそうである。
もう一人のおばさんはあっけらかんとして「わたくしね、花粉は大丈夫なんですよ」と少し自慢げである。
この花粉症ではないおばさんが「プロのおばさん」であった。
花粉症ではない「プロのおばさん」は、こう語りだす(たいてい、「プロのおばさん」は、会話の主導権を握りたい)。
「やっぱりね、コンビニ弁当を召し上がる方っていうのは花粉症なのね。お友だちに伺ってもそうなの。毎日自炊してる方っていうのは、花粉症にならないようですね。だって花粉ってもう昔から飛んでるはずでしょう?花粉症で騒いでるのは若い方が多いでしょう?若い方はほら、小さいころからコンビニあって、そういうの、召し上がってるから。私の調査結果ではね。コンビニ弁当を召し上がるか召し上がらないかが、花粉症かどうかの違いなのよ。根拠はないんですけれど」
そう、根拠はないのである。
ただ、本当っぽいことを「わたくしは自炊してますし」という少しのマウントを添えて、伝えたかったのである。
でも、そこに彼女の悪意はない。素直に役立つ知識を伝えたかったのだ。
…そう。
…根拠はないはずなのに、最近花粉症に悩まされるようになった私はコンビニ弁当を買うときあのおばさんの自信満々の顔がちらつく…
どうして「プロのおばさん」の言うことは本当に聞こえるんだろう。
おそるべし、「プロのおばさん」の説得力。
その5 お友達といることが何よりも楽しく、いつもにこにこと幸せそうであること
これは「プロのおばさん」として、なによりも大事な条件かもしれない。
私がこんなにも「プロのおばさん」に癒され、憧れ、勇気づけられるのは、彼女たちが放つ幸せオーラがまぶしいからなのである。
「プロのおばさん」たちの軽やかで、適当で、テンポのよい会話が心地いい。
先日、電車の中で、けらけらと爆笑するおばさんたちがいた。
乗客はおばさんたちと私くらいだったので、うるささは気にならなかった。
むしろ、おばさんたちの「呼吸困難になるのでは?」と心配になるほどの笑い声につられてしまいそうになるほど、私も楽しい気持ちになった。
よく、若い女の子たちに「箸が転んでも可笑しい年頃」などという表現を使うことがあるが、それは若者に限らないように思う。
おばさんでも女子高生でも、女としての本質は変わらない。
みんなで集まっておもしろいことが起これば、もう、おかしくっておかしくって仕方がないのである。
数人のおばさんたちが口をおさえながら上を向いて爆笑していたらもう最高である。
「豊かな人生経験」と「女としてのきゃぴきゃぴエネルギー」がかけ合わさったとき、
「プロのおばさん」はとてつもないパワーを発揮する。
私もいつか、お友だちを引き連れ町を闊歩し、お上品さを失わず、それでも少女の気持ちもなくさずに、たのしく幸せな「プロのおばさん」になりたい。
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