9条は誰が発案したのか

「日本国憲法の第九条は誰が発案したのか?」というテーマは今までも多くの人が議論されてきました。
1人に絞る必要はないのですが、あえて1人の名前を出せば誰か?
そして日本人は9条の発案したのか?

発案したのが日本人か外国人がどちらであっても、大事なのは優れているかどうかだと思うのですが・・・。
車やテレビやスマホなど、身近に溢れている商品をどこの国の人が発明したのかは、商品の優劣に比べたらどうでも良いことです。
法律に関しても同じだと思うのですが・・・

しかし占領下の日本統治責任者であるマッカーサーにとっては大事なのことでした。
マッカーサーは「日本には軍隊は必要ない、日本の守備はアメリカ軍が担当すべき」という考えの持ち主だったのですが、
朝鮮戦争が起こり、アメリカ政府の議会でも「日本政府にも軍隊を持たせるべき」という流れになり、日本政府の再軍備の邪魔になっている9条を作った責任がGHQにあることを攻撃されました。
そのためマッカーサーは公聴会で「9条を発案したのは幣原首相」という発言をしました。

(侵略)戦争を放棄を明記している憲法はいろいろありますが、軍隊を持たないことを書いている憲法はほとんどありません。
戦後すぐに新しい憲法(日本国憲法)を国会で初めて議論した時も、「軍隊は必要なのか?」ということは激しい議論になり、
日本共産党の議員は「軍隊は必要という理由」から日本国憲法に反対票を入れています。
しかし圧倒的な賛成票で日本国憲法は成立。

ちなみにマッカーサーは9条だけじゃなくて、日本憲法全体も主体的に作ったのは日本人であり、自分(マッカーサー)と部下たちは助言と指導をしただけだと言っています。
例えば『回想録』

『回想録』では、松本烝治(憲法草案作成責任者)が作った草案をマッカーサーが拒絶した理由は、明治憲法の悪い部分がそのままだから、
そしてマッカーサー達が草案作成に協力した理由は、ソ連の脅威から日本を守るためだと自己弁護しています。

しかしマッカーサーの『回想録』は嘘が多いことで有名です。
翻訳版の訳者の「あとがき」と解説の増田弘(中公新書の『マッカーサー』の作者)も、マッカーサーの嘘について指摘しています。

もし本当に幣原首相が発案したのなら、部下である松本烝治に何の相談をしなかったのか? 
吉田茂にも相談すべきだったはず。
幣原首相が「自分が9条を発案した」と証言したのは、マッカーサーが証言した後なので、普通に考えれば口裏合わせです。

それでは9条の発案は日本人の可能性は低いのでしょうか?

1番可能性が高い日本人は実は幣原首相ではなく、白鳥敏夫という人です。
白鳥敏夫はA級戦犯だったので、巣鴨プリズンから吉田茂に手紙を書きました(英語で!)。
その手紙に9条のアイデアが書いてあるのです。
どのようなルートでマッカーサーにその手紙が渡ったかわかりませんが、マッカーサーが読んだ可能性はかなりあります。
「憲法は幣原首相が発案した」という説は有名ですが、「白鳥敏夫が発案した」説は有名ではありませんが、専門家の間では昔からあった説です。
白鳥敏夫の名前は昭和天皇の富田メモでも出てきたので、そこで脚光を浴びることがあったりもします。
元イタリア日本大使であり、ユダヤ陰謀論者としても有名な人でした。
2021年に亡くなった歴史研究家の半藤一利さんは17歳の時に白鳥敏夫の裁判を傍聴したそうです。
白鳥敏夫の「9条発案した手紙」については、半藤一利さんや保阪正康さんらの鼎談本で詳しく取り上げられてます。

ところで占領後に最初に新しい憲法を作成を命じられたのは近衛文麿です。

しかし近衛文麿はA級戦犯に指定されます。
連合国の偉い人達から「近衛文麿は新しい憲法を作成するにはふさわしくない人物だ」と批判されます。
そしてマッカーサーは「私は近衛文麿に頼んでいない、通訳の勘違いによるミスだ」と責任回避をはかります。

次に新しい憲法を作成する役目は新しい総理大臣の幣原首相です。
幣原首相は松本烝治を憲法草案作成の責任者にします。
松本烝治を法律学者ですが、専門は憲法ではなく商法でした。

吉田茂・外務大臣が松本烝治を推薦したそうです。
理由は政治的なコミュニケーションが上手だからそうです。
松本烝治は英語が上手く、GHQの人達と積極的に議論したそうです。
松本烝治はGHQ側が出してきた草案についても幣原首相や吉田茂らと一緒に議論を重ねたそうです。
だから幣原首相が松本烝治や吉田茂らに秘密にしていた「9条の発案」をマッカーサーにしたとは考えにくい。

松本烝治が責任者で作成した草案は、実質的には東京大学の憲法学の専門家のチームが作成しました。
しかも天皇に関する箇所は、前もって昭和天皇に確認してもらって修正が入っています。
だからマッカーサーが拒絶した松本烝治責任の憲法は昭和天皇の考えも拒絶しているわけです。
しかし昭和天皇は臨機応変なので、GHQ側が作った憲法案をすぐに受け入れました。

注 昭和天皇が松本烝治作成草案に修正指示を出したのは2月9日なので、2月1日の『毎日新聞』による憲法草案のスクープ記事の後です。
だからGHQ側は草案作成に急いで取り掛かるので、昭和天皇の修正指示を知らないままだった可能性もかなりあります。

松本烝治の憲法草案は、東京帝国大学の憲法学の第一人者である宮沢俊義チームが作成しただけれど、
マッカーサーがこの草案を拒絶したということは、当時の日本の憲法学の最高峰を否定されたことになる。
占領軍の最高責任者が「占領下の国の憲法学の最高峰」を否定したことの意味は今でも大きいと思う。
宮沢俊義は新しい憲法の改正について「八月革命」と名付けているが、まさしく革命だったんだと思う。

参考文献 (特に白鳥敏夫について)

『外務省革新派 』(中公新書)  
戸部良一

『「東京裁判」を読む』
半藤一利、保坂正康、井上亮

『占領下日本』
半藤一利、保坂正康、竹内修司、松本健一



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