海辺のカフカと時間

海辺のカフカを読み終えた時、カフカと同様に我々読者も大きな冒険を終えたかのような重厚的な感覚を得る。 それは、本作が肉体的な冒険とは別に精神的な冒険を伴っていることと関連している。 カフカや佐伯、ホシノと同様に我々も様々なことを考えるのである。
私が最初に印象を持ったセリフは以下である。
「頭がよくても悪くても、字が書けても書けなくても、影がちゃんとあってもなくても、みんなそのときが参りますれば、順々に死にます。」(1)
本作の大きなテーマの一つは過去と未来、すなわち時間である。我々は得てして、時間は必然的に流れていると考えがちである。 しかし、それは時間が流れていることを意識しているからそう感じるだけであって、猫たちのように時間の流れを感じない者にとっては時間は 不存在のものなのである。つまり、時間はそれほど大事な問題ではない。
そして、そんな猫たちと会話できる存在としてナカタが登場する。そんな彼もまた、一貫して時間という概念を持たない。 時間がないから未来もない。未来がないから死を恐れる必要もない。彼の上記のセリフにはそういう背景がある。
時間の概念を持ち合わせないナカタは他の多くの概念についても持ち合わせない。例えば「飽き」(2)と「記憶」(3)である。 「ナカタには思い出というものはありません。ですから、サエキさんがおっしゃる『苦しい』という気持ちは、ナカタにはうまく 理解できないものであります。」(3)先述した、死を恐れないという事とも関連するが、我々は往々にして過去を後悔し、 未来を恐れている。勿論その逆もあろうが、トータルで過去と未来にポジティブな感情を抱いている人がどれほどいるだろうか。 本作はナカタの言動を通して、時間から解放されることの喜びと、時間がもたらす苦しみを我々に訴えている。
この命題は村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」にも登場する。
「時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しい事に、それは真実なのだ。」(4)
「風の歌を聴け」を読んだ私はこの命題に対して自分なりの答えを出した。
それは、
結局のところ死んだらそれで終わりなのだから、 不確実な未来に怯えて過ごすよりも、今をどう楽しむかに全力になった方が楽しいというものである。
これは、実にナカタの思考に近い。
事実として、未来は不安をもたらす。だから上記のような生き方は望ましいと思える。しかし、これでは不十分である。不十分で不親切でもある。
何故なら、我々が人間である以上、過去と未来を我々の中から完全に消し去ることはできないからである。本作は、この問題に対して結論を出している。
その一つは、「いいかい、それはもうすでに起こってしまったことなんだ」(5)というマインドである。つまり、過去をそれそのもとして受け入れろ ということである。また、「言いかえれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。 それが君にとっての唯一の救いになる。」(5)
つまり、未来に対して希望を抱けということも語っている。過去を受け入れ、そこから未来への希望を抱け。 それはなんと荒唐無稽で平凡で肩透かしを喰らうような結論だろう。
だが、私にとっては「風の歌を聴け」から「海辺のカフカ」を通してこのような 結論に至ったことは救い以外の何者でもないし、大きな意味を持つのである。
村上春樹の小説を「ノルウェイの森」、「風の歌を聴け」、そして「海辺のカフカ」と順に読むと、ある共通点に気づく。
それは、恋愛とSEXである。恋愛について、村上春樹は「風の歌を聴け」の作中で 「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。(6)」と述べている。
一方で、私はこれに関して以下のように述べている。
「恋愛の良いところは他の余計なことを頭から消し飛ばしてくれる点にある。 恋愛にかまけていさえすれば、我々は多くの不安に着いて思い悩まずに済むのである。」
未来への不安に日々苛まれている我々にとって 一時的にせよ、それらから解放される時間、手立ては重要である(もちろん、先ほど述べたようにそれらといずれ本質的には向き合うのであるが)。
そしてその手立ての一つが何を隠そうSEXである。
「でも気持ちよかったよ」「どれくらい?」「過去のことも未来のことも考えられないくらい」(7)
この本質的な会話が繰り広げられるのが、彼女が亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めとるシーンであるということが、何よりこの事実を証明している。
また、本作では
プラトン「饗宴」より、男女が異性を求めるのは神によって 真っ二つにされ生き別れになってしまったもう一つの半身を探し求めるているが 故であるというアリストファネスの説を引用している。(8)このいささか不気味な想像をもってして、 やはり恋愛の果たす役割は大きいと感じざるを得ないのである。
SEXとは別のベクトルで、時間からの解放を感じさせる物が作中で他に二つ示唆されている。その一つは海である。
「どうして海を見ていると心が安らかになるのでしょうか」「たぶん広くて何もないからだろうね」(9)
私はSEXと同様に海が好きだ。語弊がある。 ただ、現実として私だけではなく、多くの人々が海をただ眺めて過ごすことを好んでいる。
しかし、海を眺めていれば快楽を感じられるわけではない。私が別ベクトルと言ったのはそういう意味で、我々は海を見ている時、 SEXに夢中になっている時のように不安を忘れる訳ではなく、何故かはわからないが自らの不安が小さいように、 場合によっては不安をどうにかして乗り越えることができるように感じられるのである。だから我々は海を好んで眺める。
そしてそれは闇についても同じで、「闇はどこまでも深く、そこからはあらゆる時計がうしなわれている。」(10)
闇が持つ無限性は明らかに時間や有限性とは相反する物であり、闇を感じていると不思議と心が落ち着くように感じられる。
この世界の中で私はちっぽけな存在に過ぎないのだから、私の悩みなど吹いて飛ぶような何かに過ぎないのである。
ただ、ここで私がいう闇は、目を瞑ってそこにある闇というわけでない。私のイメージする闇とは、例えば夜の森の中にある闇である。 そこには、自然の作り出す不思議なエネルギーとそれをありありと感じ取る我々の関係性がある。古来、人々の生活の近くには海と森の両方或いは どちらか一方は確実にあっただろうから、人々はそれらの作り出す闇に触れることで、不安から解放される機会が今よりも多く与えられていたのかも しれない。
それに引き換え、現代の我々の大部分が暮らす都会にはそのどちらともがない。更に、都会は24時間永続的に光を放ち、 全てを光で満たし闇をかき消してしまう。田舎で育った私が時折東京に抱く不満足感は恐らくここから来ているのに違いない。
これは蛇足だが、現代人の中にはSEXをも手放してしまう者もいる。もし、都会のど真ん中に居てSEXを拒絶するのであれば、彼は一体どのようにして 不安から一時的に解放され得るのだろうか。いや、手段はきっと何かしらある。私も何となくそれはわかる。ただ、形が変わったというだけなのかも しれない。というか、そうでなければいけないと思う。
さて、未来からの逃避、それらを可能にする「SEX」と「海」、そして当然「季節はいつでも夏だ」(11)。
これらはものの見事にデビュー作の「風の歌を聴け」のテーマから引き継がれている。
私の風の歌を聴けの感想は以下のように始まる。
「夏に彼女と車で海を見に行く。 この14字は人生の究極である。恐らく、村上春樹もそう思っているに違いない。」
これには思わず笑ってしまう。笑ってしまうが、私はこの一貫性を信用している。変わらないからつまらない?私はそうは思わない。 何故なら、私は何らかの事象に対して結論を出すにはまだ若すぎるし、それに命題、テーマはあくまで今の私がそう受け取っているに 過ぎないのだからその時々で変わりゆくものだと思うからである。
ここまで一貫して本作のテーマである時間について私の思いも含めて十分に語ってきた。つまり、私の精神的な冒険について語ってきた。 しかし、私はここで「海辺のカフカ」の感想を終えるわけにはいかないのである。何故なら本作は哲学を語っているが哲学書ではなく、 小説だからである。つまり、本作で明らかになっていない多くの謎について、散りばめられた事実から紐解かなければならないのである。 村上春樹、そして海辺のカフカ。これは間違いのない名作である。それは、我々に壮大な哲学を与えつつも、鬼気迫り謎が謎を呼ぶミステリーを 展開することに成功しているからである。この挑戦から私は目を背けることができない。私には、この謎を読み解くという選択肢しか残されていないのである。
ただ、その前に一つだけ述べておこう。まず、私にとっては今まで語ってきたことの方が本質で、物語の謎は副次的なものに過ぎない。 だから、私には理解できていない多くの事柄もあるし、多分中途半端な整理のまま、ここに記すことになる。だが、先述していたように、 あくまでこれらは私にとって副次的なものに過ぎないのであるから、これくらいで十分なのである。また、ネットを見ればいくらでも真実らしい 辻褄の合う考察が見つかるだろう。だが、敢えて私は何も見ず調べず、私が海辺のカフカを読んで感じたことのみを書こうと思う。 それは私にとっての本質について記すのと同じ態度であり、そもそも他人の受け売りを複写することに意味はないのである。
ということで、本作の謎は大きく2つに大別できる。
❶入り口の石の先にある別の世界について
❷カフカと佐伯の関係について
まず❶の別の世界であるが、ここは恐らく不老不死、永遠の世界である。
ナカタはかつてお椀山で意識を失った際にこの世界に入ったと語っており(12)また、その結果として不老不死つまり、時間と記憶を失ってしまったのだと 考えられる。
何故ナカタが別の世界に行ったかに関して、恐らく積極的に渡った佐伯とは事情が異なる。 そこには恐らく、先生が昨晩に夢の中で夫とSEXを行い絶頂に達したこと(13)が関係していると思われる。
これについては、 未だ靄がかかっているように詳細が分かりかねるのであるが、本作には重要な場面で「夢」が何度も登場している。象徴的なセリフとして 「夢の中から責任は始まる」(14)と大島がメモを書き残している。「たとえ夢の中であったにせよ、君はそんなことをするべきではなかったんだ」(15)と、 カフカは夢の中でさくらをレイプしたことに関して酷く後悔している。
夢が責任の始まりであり、本質の欲望を表す場なのだとしたら、 先生が時間からの逃避=SEXを夢の中で強く願ったことが別の世界への扉を開くトリガーの一つになったのかもしれない。
ただ、重要なことは別の世界に行ったのは先生ではなく、ナカタだったということだ。これについて、先ほどナカタは積極的ではなかったと言ったが、 当時のナカタには諦観のようなものが見受けられ、あらゆる達成の喜びを失い、同時に両親からDVを受けていたようであると先生は語っている。
諦観、つまり未来を諦め、更にDVから逃れるために現実からも逃避したい。ナカタ少年がこのように考えるに至る材料は十分に揃っており、 そしてお椀山で信頼しかけていた先生からも暴力を受けたこと(16)が、別の世界への入り口を開くもう一つのトリガーとなったと、 このように考えることもできる。
ということで、本作最大の謎、❷のカフカと佐伯を巡る問題について語ろう。まずもって、このような入り組んだ状態においては事実を確認することが 重要である。
佐伯は、ナカタと同様別の世界に行ってしまった人間である。このことは、佐伯がナカタと同様に入口を開いた後に死んでしまったこと、 佐伯の人生が基本的に、かつての彼が亡くなった20歳の時点で停止しているというセリフからわかる。(17)
また、佐伯はこのことについて、全てが縁の内側で完結していた、つまり佐伯と彼の完璧で完全な関係を永遠に保つために、入り口の石を開いたのであると語っている。(18)
「私は孤独だった。ひとりぼっちではなかったけれど、それでもひどく孤独だった。どうしてかといえば、 自分がこれ以上幸福になれっこないということがわかっていたから。」(19)
不幸が故に未来に希望を抱けなかったナカタ少年とは逆に、幸福の絶頂を知ってしまったが故に、それを未来に失うことを恐れたのが佐伯であり、 そして彼女は時間のない世界へと逃避したのである。
そしてその結果、彼女は報いを受けた。報いとは、客観的に佐伯が彼と離れ離れになって 生きることになってしまったことを指している。また、これは恐らくではあるが、彼の死もまた、佐伯が扉を開いた結果として起きてしまったことのように 思える。
さて、佐伯の報い以前を確認したところで、報い以後に目を向けよう。 「お母さん、と君は言う、僕はあなたをゆるします」(20)ここからわかるように、佐伯はカフカの母である。
そして、この後佐伯が語っているように、 佐伯は、カフカをかつて愛した彼のように意図せず失うことを恐れて、自らの手で捨てたというのがことの真相である。
だが、問題はここでは終わらない。『「あの絵はもともとあなたのものだったのよ」〔…..〕「だってあなたはそこにいたのよ。そして私は そのとなりにいて、あなたを見ていた。」誰かが少し離れたところで僕の絵を描いている』(20)
これは推察であるが、カフカは亡くなってしまったかつての彼の生まれ変わりのような存在である可能性がある。 そしてこれは、恐らく佐伯が別の世界に行ったことと無関係ではない。その証拠として、「僕には家族と一緒に海に行った記憶はまったくない。 どこに行った記憶もない。」(21)というように、カフカもまた、ナカタと同様に記憶を持たないのであり、また、カフカが突如として記憶をなくし、 その間に暴力を振るっていたという事実もこのことを裏付けている。(22)
そんなカフカが終盤別の世界に足を踏み入れるシーンは千と千尋の神隠しを想起させる。
カフカは佐伯=母とのわだかまりを解決するために=生きる希望を取り戻すために、別の世界=湯屋へと足を踏み入れた。 兵隊達の後ろを振り返らない方がいいという助言は千と千尋におけるハクとの別れのシーンそのものである。(23)
さて、最終盤でこいつについて語るのは気が進まないが、どうしようもない猫殺しにも触れておこう。彼もまた、佐伯と出会い惹かれてしまったが故に、 別の世界へと渡る試練として、来る日も来る日も無垢な猫の命を奪い続けていたと考えられる。
また、彼には、入り口の石を開くトリガーとして、自らを空っぽの人間=出入りをした人間に殺してもらう必要があったと考えられる。 それは、猫殺しがナカタに対して「実を言うと、私は長いあいだ君のような人を捜していたんだ」(24)と語っていたことからわかる。
彼は当初その役目を息子であるカフカに担わせようとしていたものの、カフカが自らの元を去ってしまったがために、 その代わりとしてナカタを選んだのである。
さて、これを持って現時点で私が理解している海辺のカフカの謎について語り終えた。しかし、最後を猫殺しで締めくくるのは気が進まないので、 ホシノについて「本質的な観点」から語って終わりとする。
「生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていったみたいだ。」(25)
「カラッポな人間」でないはずのホシノが、自らを「空っぽな人間」と評している。
我々は時間を知っている。過去も未来も知っている。それなのにどうして、考えれば考えるほどに、生きれば生きるほどに理想から遠のき、 大事なものを失い続け、何者でもない存在になってしまったかのように感じてしまう。
一方でこのシーンと前後を逆にして、前日のホシノはこう考えている。「自分がいったい何かという問題が、ナカタさんの横にいると、 もうどうでもいいようなことに思えて来るんだね。」(26)
つまり、一度は吹っ切れて現実に向き合ったものの、やはり過去と未来に押しつぶされそうになり、そうして彼は、一度目の気づきを得た 喫茶店を訪れる。そしてそこで店主とハイドンについて語り合い、再び現実=今と向き合うことを決心し、喫茶店を出るのである。
ハイドンのメロディか、彼の生き様か、或いはそれを熱心に語る店主の姿かのいずれか或いはどれもが、悩めるホシノを奮い立たせたのである。 これをもって、都会の中にも不安を乗り越えるきっかけがあったと言って差し支えないだろう。そして、私もまた、都会の片隅で本に向き合い、 本が語る不安やそれに向き合う姿勢をメタファーとして我がことに置き換え、現実に向き合っているのである。

(1)村上春樹(2005)「海辺のカフカ上」新潮社p107
(2)同書下p262(3)同書下p358
(4)村上春樹(1979)「風の歌を聴け」講談社p100
(5)村上春樹(2005)「海辺のカフカ下」新潮社p377
(6)村上春樹(1979)「風の歌を聴け」講談社p26
(7)村上春樹(2005)「海辺のカフカ下」新潮社p96
(8)同書上p79(9)同書下p255 (10)同書下p312(11)同書下p364(12)同書下p172(13)同書上p206(14)同書上p278(15)同書下p347 (16)同書上p216(17)同書上p342(18)同書下p360(19)同書下p44(20)同書下p471(21)同書上p15 (22)同書上p179(23)同書下p475(24)同書上p269 (25)同書下p217(26)同書下p211

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