「光る君へ」のための平安準備情報3.5

書きたいことがたくさんあって困るー状態です。
平安…おもしろいんですよ(涙)

さて、前回は平安時代の大前提、帝の結婚編&公任の失言の裏側を書いてみました。

妊娠出産のデリケートな話が入っていますが、あくまで平安時代の史実としての有様の説明です。

平安時代の大前提

平安時代の大前提結婚編

もよろしければぜひ。

なぜ今日のタイトルは「3.5」かというと、文字通り③を少し補いたいなという意図からです。
前回公任のトンチキ大失言について書きましたが、そのきっかけとなった公任の姉遵子立后の背景についてです。

公任の祖父は藤原実頼という太政大臣にまでのぼりつめた人でした。
(ちなみに次は実頼さんの日記を切っちゃった公任トンチキエピを実資視点から書きたいと思っています)
謹厳実直な人柄だったようですが、「名ばかり太政大臣」と本人がこぼすほどに藤原北家九条流の人々に押される部分もありました。
それはなぜか。
実頼の後宮政策(娘を帝と結婚させ男子が産まれたら皇太子にする)がうまくいかなかったからです。
前回も書きましたが九条流が道長の代で栄華を極めた背景は、それ以前から「偶然娘が産まれ、偶然適齢の帝や皇太子がいて、娘と結婚させたら偶然男子が産まれ、もろもろの事情をふまえても偶然その男子が帝や皇太子になった」という事象に恵まれたからです。
現代人から見ると、この偶然性のはかなさがより理解しやすいかと思います。

遵子が立后したのは982年。
その2年前の980年には北家九条流兼家(藤原道長父、大河では段田さん)の娘詮子(せんし、大河では吉田羊さん)は円融天皇の男子(のちの一条天皇)を産んでいます。シンプルにいえば家柄からいっても詮子を中宮にすればよかっただけです。でも円融天皇はそれをしませんでした。なぜか…

①遵子を愛していた…まぁそうなんだと思います。でもそれだけが理由にはもちろんなりません。
②兼家がうざかった…こちらがおそらく最大の理由。

藤原氏は自分の血族に帝になってもらわないと権力が持てない、帝は有力な藤原氏からバックアップしてもらわないと政権が安定しない、というお互いがお互いにとって複雑な関係でした。

藤原氏からすれば帝には元気でいてほしいけどお飾りでいてほしい…
帝からすれば藤原氏には一定程度バックアップはしてほしいけど自分が仕切りたい…

こうした駆け引きが常にあったといえます。
その点で、詮子立后を回避した理由は、おそらく円融天皇自身が自分で政治を行っていきたい、といって藤原氏の力を全く借りないのは無理なので、兼家たちより押しが強くない小野宮流と手を組みたいという意志表示であったと考えられます。

これは北家九条流にとっては何重にも「ムカつく」(では済まない、、まさに怒髪天を衝く事柄)処置ですし、逆を言えば公任たちはそうした帝の意図を正しくくみ取っていたと思われます。
だから失言していいってことではもちろんないのですが、遵子立后はそうした権力の交代の可能性をはらんだ非常に高度な政治的事象であり、そのただなかにいた18歳(といっても当時の平均寿命と元服年齢からいってプラス10歳くらいの体感でいいと思います)の公任くんがちょっと言ってみたくなっちゃったのもわからんでも…ない…かはわかりませんが、いちおうそうした背景があるのでした。

前回のブログに、帝ってすごく大変で孤独な人なのだな、という感想をいただきました。
本当にそう思います。好きな人を思うように愛せない、好きな人を自分の一番大切な人の地位につけることができない(ことも多い)、、
円融天皇、いろいろあったかもしれないけれど、遵子がとっても好きだったらいいなと思ってしまうのでした。


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