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汚れないためにも
先日近所の神社まで参拝した際、驚いたことがある。鳥居の紙垂(しで)にラミネートが施されており、形にそってカットしてあった。コーティングがあしらわれているのである。鳥居内にある豆電球に照らされて一つ一つがテラテラと光を反射させていた。紙垂は紙のまま放置されているのをよく見る。近年では和紙ではなく、若干光沢のある紙で作られているのもたまに見かける。確かに和紙は水に弱い。屋外にある鳥居なので、雨風にさらされることも多いのだろう。汚れないようにコーティングをしたくなるのもわかる。
しかし、私の中ではこのコーティングがされている紙垂を見て、逆にもったいなさを感じた。紙というのは使えば使うほど、色が落ち着き強度が弱くなっていく。薄く弱くなっていきながらも、向こう側の光をこちらに薄く通してくれる紙の質感は、生き物のような温かみがあり、どこかこちらを気に掛けてくれるような優しさを兼ねそろえているのだ。たくさん掛けられているおみくじや紙垂から、人気のいない境内でも見守ってくれているような人に近しい存在感を感じた。一層のラミネートが紙の柔和な存在感を閉じ込めていた。ピンとキレイな張りをもった硬質な紙垂はこちらには興味を持っていないように見えてきてしまうのだ。だからもったいない。せっかくの中身に合わせて欲しいと思えてしまった。
汚れないためにどうしたらいいかというのに力を入れることが増えてきたと思う。本体を守るためにリフィルやカバーが100円ショップなどでたくさん見るようになった。汚れから守ることがある程度大衆の意識に深く染みついてきたのだ。だが、ものを大切に使うと言うよりは、ものを大切にしまって使わないことが多い、つまり汚れることに対してマイナスな気持ちを持ち合わせる人が多いのではないか。そりゃ新品のようにきれいなものの方が、気分もいいし、見目もいい。ある程度の清潔感を伴うことが、人の善し悪しの判断の基準とされているのも確かである。しかし、使うからこそその人の身体にあった形や使用に変わっていくのは、先ほどの紙垂でも感じたような生き物のような温かみを得られるのである。私はこのようなものの使い方が出来る人がうらやましい。私自身ものの物持ちは良い方だと自負している。しかし、キレイなままで使いつづけているのだ。それは良いことだと思う人もいるだろう。だが私はものを汚れないようにする使い方ではなく、ものを自分にライフスタイルに付き合わせる使い方に憧れているのだ。
小さい頃、シールをベタベタと至る所に貼り付けた覚えがある。今になってはシールの台紙から剥がすこともなくなった。いつからか、汚れないことを優先するようになってきた。新しいものをキレイに保つことに躍起になり、使われていくことで生活に馴染んでいくものの良さが薄れてきた。生活に馴染むことで出てくる「らしさ」や個々の価値が遠くに感じられるのだ。だからこそ、そこに出てくる温かみや柔らかさをもう一度思い出したいと私は思うのだ。そういう意味で、私はラミネートの紙垂を悔しく思ったのだろう。