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【短編小説】忘れられないコロッケ蕎麦
「すいません、今日は池内先生にお願いがあって、急に伺いました」
「何、お願いって? なんだか言ってみな」
池内先生は、下町の塾長にしては人情味を感じさせてくれない。どんと腰が据わっていない分、偉そうな振る舞いをする。苦手なタイプだ。だからこそ、営業所長の橋本さんは「懐に飛び込んでこい」と言ってきたのだ。
ーー「所長から『一冊でいいからお願いして買ってもらえ』って言われて、今日二十冊売り切って帰らないと怒られるんです」って言って、買ってもらえ。それができたら、何かが変わるから。オレを悪者にしていいから。みんな下町の人だから「なに、橋本君、そんな偉くなっちゃったの? 威張ってんだ。大変だねぇ」って買ってくれるからーー
今朝、そう所長から言われ、へたくそなウィンクとともに営業所から送り出されたのだった。
「所長から『一冊でいいからお願いして買ってもらえ』って言われて、今日二十冊売り切って帰らないと怒られるんです」
「え? 所長って橋本君でしょ? なに、怒るの、彼が? へぇ、偉くなったもんだね」
そういう池内先生は偉そうだった。しかし、笑ってしまうくらいシナリオ通り。ここまで八件の塾を回って、十五冊を面白いように買ってもらえた。池内栄伸学院はルート的にも心理的にも最後の訪問場所だった。
「なんだ、橋本君は、怒ると怖いのか」
「あ、はい、かなりガツンと……」
池内先生に対する緊張とここまでの疲れのおかげで、僕が追い込まれているように見えたのだろう。チャンスだと思い、より肩を落として怖い上司に困っている新人を演じた。
「いいよ。買うよ。あと何冊残ってんの?」
下町の塾長たちは、皆個性が強く、十人十色だが、共通しているのは、みんな「頼られるのが好き」ということ。池内先生も例外ではなかったということだ。
「五冊、……まだ残っているんです」
「へぇ、十五冊は他の塾が買ってくれたってことか。いいよ、残り全部買うよ」
「本当ですか! ……どれも違うテキストなので、ちょっと見ていただけると……」
「いいよ、何でも。ただその代わり少しコピーして使わせてもらうよ」
冗談にならない、というか本気だろう。何と答えたらいいものか……。
「まあ、とにかく置いていって。発注書、あとで書いておいて」
池内先生は人助けをした満足感を隠しきれない表情で、照れ隠しのように立ち上がって自分のデスクに戻って行った。
「先生、本当にありがとうございます! 本当に助かりました!」
僕も命の恩人に別れを告げる人を演じながら、池内栄伸学院を後にした。
「でかしたな! やるなぁ、お前。まぁ下町の先生たちはさ、強面だったり、口が悪かったり、変態だったりするけど、みんな根は優しくて面倒見がいいからよ、泣きつけば助けてくれんだよ」
橋本所長は大袈裟に僕の健闘をたたえてくれた。作家になりたくて大学院に進もうとしていたが、結婚を決め、その条件として就職することが義父から提示され、中途採用で塾相手の教材会社の営業職に就いた。橋本所長は、そんな経緯を知って面白がりつつ、営業職がつとまるのか心配もして、可愛がってくれている。所長も二十代後半と若く、自分が一から育てる部下は僕が初めてだ。所長になる前に担当していた下町エリアを僕に担当させて、事細かにいろいろと教えてくれている。だから、僕に一皮むけさせようと考えてくれた「懐に飛び込め作戦」が上手くいって、ご満悦なのだろう。
「そしたら、いいか、次はお礼参りすんだよ。一週間後、同じルートをお礼してまわれ。そうしたらお前のことが可愛くなって、今度は向こうから『そういえばあのテキストがもうなくなりそうだったから、十冊送っといて』って始まるから」
橋本所長はまた僕にへたくそなウィンクを送った。
ここで、ひとつ先にお話しておきたいことがある。
小学六年、社会というものを知り始めたもののまだ何も分からない頃のこと、母が詐欺事件にほんの数日巻き込まれた。
友人の誘いで、あるパーティーに参加した母は、帰ってくるといつもの母らしからぬ高揚感でパーティーの様子を家族に語った。家族とは、父と兄と僕の男三人。父と兄の喧嘩や僕と兄の兄弟喧嘩を止めてくれる優しい母が、パーティーの主催者のカリスマ性、彼が語った「あくまでも皆さんの幸せのため」という話の感動、四人が人差し指一本で主催者を持ち上げた話、みんなが幸せになりたいという想いで一つになることが大事だということ、幸せになるはお金が必要であり、そのお金は、人を紹介し、その人の幸せを願うことでどんどん入ってくる、だから、お母さんがこの家族を幸せにしてあげる……といったことを、興奮してまくし立てた。その時の母のいつもと違うもの――今考えれば、優しさにとってかわった我欲――を湛えた目の色や怖いものがなくなったような声の張りに違和感を覚えた。というよりいつもの母がいなくなってしまった寂しさを、男三人みんなが感じていた。主催者の言うことを信じ、すっかり崇拝し始めていた母は、正に洗脳されていた。
それから一週間も経っていなかったと思う。マルチまがい商法による大掛かりな詐欺事件が検挙されたことが大々的に報じられた。当時の僕は何のことかさっぱりわからなかったが、ニュースを見ながら何か沈むような空気の重さを感じ、ふと思い出して母に尋ねた。
「この間言ってたヤツって、どうなったの?」
「シーッ! それがこれなんだよ」と慌てた父が小声で僕を制した。父は優しい顔をしていたし、母を気遣っている様子だったが、そう言われてからそっと母を見ると、先日とは百八十度打って変わった憔悴した様子が明らかだった。タイミング的に被害にあわずに済んだであろうことは僕でも分かった。そして「お母さんが戻ってきたんだ」とホッとする気持ちも大きかった。でも一番大きかったのは、あんなに信じた人物に騙されていた母がかわいそうでならない気持ちと、そんなふうに他人を弄ぶ詐欺師への怒りだった。
だますためには、信頼させることが必要だ。傍から見たら「なんで騙されるのかな」と思う場合でも、巧妙に信じさせてしまうのが詐欺師だ。信じた相手への信頼が、はじめから嘘で固められたものだったことを知ったショックが心に与えるダメージは計り知れない。
僕は、母の一件から、だますという行為は人の心を殺す最大級に卑劣な行為だと考えていた。そして、だます側にはそもそも人の心など存在しない……。
あの日から一週間後のお礼参りも順調だった。一冊でも買ってくれた下町の塾長たちは、また僕を助けることを楽しみにしてくれているかのようだった。また面白いようにシナリオ通りに「予備も含めて」とか言いながら二十冊の発注をくれた塾長もいた。そして前回買ってくれなかった塾長たちも「講習前まで待ってくれ」などと継続購入を約束してくれた。
それぞれの塾で前回よりも長く話すことができたので、最後の池内栄伸学院に行くのは、もうすぐ塾生の子どもたちが来るような夕刻になってしまった。下町の夕刻は生活の香りがプンプンして心地よい。池内栄伸学院は私鉄の駅前だが、行き交う人は夕飯の買い物、早い仕事帰りの人、学校帰りの学生、塾に通う小学生……、見える景色はすべて日々の生活の一コマだった。
「失礼します。今日はご挨拶にだけ伺いました!」
僕は忙しい時間帯であることを考えて、そんな言葉とともに元気に入口で挨拶をした。
「おー、来たか。待ってたよ」
その言葉に喜ぶ間もなく、僕は次の言葉に耳を疑った。
「よく来たね、詐欺師君」
サギシって? あのサギシのこと?
「まあ座りなよ。面白いものを見せてあげるから」
僕は受付カウンターに座り、池内先生は自分のデスクから数冊のテキストを持ってきた。
「これ、先週君から買ったやつと同じだけど、献本で、タダで一冊ずつ送られてたよ、以前にね」
え? それは承知の上で買ってくれたのではなかったの? 他の塾長たちは、そんなことは承知の上で……。
「調べなかったこっちも悪いんだけどさ、まんまと騙されて買わされてしまったよ」
騙されて? 騙してなんかいない。そんなつもりは全くない。多少芝居じみたことをしていたとしても……。
「橋本君が怖いなんて言ってたけど、僕もよく彼のことを知っているからね。彼はそんな姑息な手は使わなかったよ。誠実に仕事をしていたと思うけどね」
橋本さんに「やれ」と言われてやったこと……、いや、そんな言い訳をするつもりはないけど、だからと言って、この自分が詐欺師? 自分はそんな人間じゃない。自分はそんな最低の悪人ではない……。母の顔や、地位もお金もない僕と結婚してくれた妻の顔が浮かんだ。
「おい、何で泣くんだ……。なんだ、本当に橋本君は怖いのか?」
気が付いたら、僕の眼からぽろぽろと涙があふれだしていた。
「いや、別に怖くはありません。ただ、ただ……すいません」
僕は詐欺師ではない、僕は人をだますことは一番いけないと思っていますと頭の中で繰り返すだけで、口に出して言うことはできなかった。
「こんにちはぁ」一番に入ってきた小さな女の子が、元気に挨拶をした後、僕を覗き込むようにしながら通り過ぎた。
慌ててティッシュ箱を持ってきた池内先生は、「もういいから。次から誠実に営業しに来てくれればいいから」と無理に笑顔を作りながら、出来損ないの優しい口調で言った。
僕は止まらない涙に自分でも困りながら、「すいませんでした」と頭を下げ、そそくさと池内栄伸学院を後にした。
ハンカチで涙を拭いた後、人の行き交う陸橋とそれを煌々と照らす夕日を見た。「下町の陸橋は低いのかな」と思ったこととセットで、あの美しい夕暮れ時の風景は忘れられない。
営業所に戻り、いつも通り笑顔で橋本さんに結果報告をし、また喜んでもらえた。しかし実際には帰る気力もなく、だらだらと仕事の整理をするふりをして、最後まで営業所に残った。
一人、小さな営業所を見渡しながら、社会に出るとはこういうことか、会社組織に入るというのはこういうことか、とため息交じりに考えた。「人柄で売れ、お前はそれができる」と橋本所長は言ってくれるが、でも、売りに出す「人柄」は素の自分では決してない。しかし皮肉なことに、会社の人間として「詐欺師」とまで言われたが、言う側は僕個人を指して詐欺師と呼んだのだ……。でもそれが「組織に属する」ということなのだろう……。
駅構内で、閉店間近の立ち食い蕎麦屋に入った。貯金もなく結婚し無駄に使えるお金はないので「かけそば」の食券を買い、おじさんに渡した。
「はい、お待たせ」とおじさんが差し出した蕎麦には、コロッケが乗っていた。
「余っちゃったからさ、食べて、元気出して」と、おじさんは優しい笑顔で言った。
明らかに元気なかったか……と思いながら、「ありがとうございます」とお礼を言った。
「オレも昔は会社勤めだったけど、いろいろ悔しい思いをすることがあるよな」
すべてお見通しのような蕎麦屋のおじさんの言葉に、蕎麦の上のコロッケが涙で滲んだ。
「そういうもんなんですかね」と僕は涙を笑顔でごまかしながら、漠然とした問いかけをした。
「ヒトっていうのは、大きく分けてふた通りでね、自分に嘘をつけるか、つけないか、どっちかなんだよね」
そうおじさんは答えてくれた。分かったような、分からないような、そんな答えだったが、もう閉店時間を過ぎて僕一人となった店内で聞いたその言葉は、その時の僕にとって大事な真実として印象づけられた。
そしてそのシチュエーションにあまりにも似合っていたコロッケ蕎麦は、僕にとって一生忘れられないご馳走となった。