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【短編小説】クリームソーダを飲むときのルール
「リストカットの痕を消す治療とか、あるみたい」
自分の左手首を眺めながら、那美は言った。
「『スマホの液晶画面だけ替えられるみたい』、みたいな言い方、すんなよ」
「機種変しちゃった方が安いよ」
那美はいたずらっぽく笑った。
那美のことが心配だった。リストカットをやめられたと突然言い出しけど、簡単に「よかったね」とは言えない。僕はホットコーヒーを一口すすった。
「やめられたと思ってないんでしょ」
那美は僕を覗き込むように言って、笑った。いや、と口の中で言いながら窓の外に目をやるしかなかった。通りの向かいに西日が差していて、正面の古い惣菜屋の二階の窓が眩しい。光の残像が残る目を那美に戻すと、なぜかにやけた表情を浮かべてゆっくりとクリームソーダをかき混ぜていた。
「あ、オレはアイスを先に食べちゃう派なんだよなぁ」
「それじゃあ、ただの『ソーダ』になっちゃうじゃん」
僕は思わず笑いながら、那美がご機嫌であることを感じていた。躁状態でなければいいけど。
昭和レトロを売りに新築された喫茶店の店内は、夕方の薄暗さも相まって、どこか懐かしさを感じさせる。
「ラジオでね、教えてくれたの」
「ん? 何が?」
唐突な那美の言葉に、反射的に、状況的に、レトロなラジオが頭に浮かんだ。昔のロボットの顔みたいなラジオ。
「聞いてみる?」
そう言って那美はLINEでmp3のデータを送ってきた。
とりあえず聞いてみる以外の選択肢は浮かばなかった。黙ってイヤホンを耳にはめ、再生してみた。
「Dawn FM」
ザ・ウィークエンドのアルバムのジングルが流れてきた。
「はい、ではお悩み相談のコーナーです。この時間はリスナーから送られてきたお悩みに、DJショウがお答えするコーナーです」
FMぽくないAMラジオのレトロなノリで話し出したのは、おそらく那美と六つ歳の離れたお兄さんだった。いつもショウくんが、ショウくんが、と話に聞いていた。
「ラジオネーム『ショウくんの妹』さんからの相談です。『私はリストカットをしてしまいます。手首をスッと切ると、スッと一瞬心が軽くなります。なぜそうなるのか教えてください』」
思わず那美に目を向けると、何を思っているのか、今は澄まし顔でクリームソーダをかき混ぜてはアイスとソーダの混ざったところをすすっている。
「うーん、DJショウが思うには、人生って『自分育成ゲーム』なんです。でね、ゲームって何かっていうとルールがあって成り立つものですよね。簡単に例を挙げると、バスケはあのゴールに入れると得点っていうルールがあって、じゃあ、あのゴールに入れるために練習して成長する。それが楽しいな、って」
那美は中学ではバスケ部だった。でもそこでも嫌な思いをしてしまっていたはずだった。那美の何がいけなかったんだろう。那美は本当はただ絵を描いていたかったんだろうな。
「で、『自分育成ゲーム』のルールは何かっていうと、それはその人が決めた生き方なんだと思うんですね。『自分はこうやって生きるんだ』っていうルールの中で、自分の目指す姿に近づくことを楽しむゲーム」
那美が身を乗り出して「どう?」と口の動きで聞いてきた。
「今、いいところ」
思わず言うと、那美は自慢げに微笑み、頬杖をついた。結構可愛いじゃん、と思えてちょっと嬉しく感じた。
「DJショウはさ、うまくいかないと、ゲームをリセットしちゃうんだけど、『ショウの妹さん』が『消えたい』って思うのも同じなんだと思うんだ。自分の望む姿に近づきたいのにうまくいかないからリセットしたくなっちゃうんだろうね。でもね、生きるっていう『自分育成ゲーム』と普通のゲームとでは決定的な違いがあるんだ。それは生きてると身体や心が痛むっていうこと。『自分育成ゲーム』がうまくいかない時って、身体なり心なりが痛いんだよね。耐えきれない痛みって、あるよね」
那美の痛み……、僕はどこまで分かってあげてるんだろう。
「逆にいうとね、痛みを感じるって、生きてる証拠なんだ。そう考えると『消えたい』って思う心の痛みを、でも生きてるんだっていう身体の痛みに変えて麻痺させてるのかもね、リストカットって。痒いところを叩いて痒みを抑えるみたいにね。アハハ」
また質問をお待ちしています、というDJショウの声を耳から遠ざけながら、「那美の兄ちゃん、いいよな」と僕はつぶやいた。
「分かっちゃったんだ、なんでリストカットしちゃうか。分かっちゃったら、やらなくなっちゃった」
そう言いながら、那美はクリームソーダの最後の一溜りをズズッとすすった。
外に目をやると、陽が沈みかけた空の桃色の雲が向かいの窓に映っていた。
「あのね、私、クリームソーダを飲むときのルール、決めたんだ」
「えぇ? なんか、そういうこと?」お兄さん、もっとスゲー深いこと言ってたんじゃ……。
「ゆっくりアイスを混ぜながら、アイスとソーダの味がちょうど半々のところを飲んでいくの。今日はすごくうまくいった」
屈託なく嬉しそうに笑う那美につられて、「やるじゃん」と僕も笑った。
「ホットコーヒーを飲むときのルール、何かないの?」
最後にサクランボを口に含みながら那美に聞かれて、ほとんど口をつけていないコーヒーカップを僕は見下ろした。
「ぬるくなるのを待って、一気に飲む」
僕は一気にコーヒーを飲みほした。
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