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オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか。

二期会「影のない女」最終日の上演を観た。オーケストラと歌手の皆さんは大熱演だった。この方々の演奏でカットなしの全曲を聴きたかった。
演出内容については支離滅裂。コメントする気持ちにもなれない。今回の上演を観て最も考えさせられたことは、下記の一点だ。

『オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか。』

【オペラの芸術的価値の源泉は音楽】
オペラ作品において、最も芸術的価値が高い要素は音楽だ。決して演出ではない。舞台作りや演技がなくても、オペラの音楽だけで聴くものを十分に感動させることができる。だから、演奏会形式のオペラ上演が成り立っているのだ。逆に、音楽なくして、舞台と演技だけでオペラが成り立つはずもない。この点において、オペラは演劇とも異なっている。オペラと違い、舞台作りと演技のない簡素な形式の演劇上演は考えにくいであろう。
以上のように考えれば、オペラ作品の本質的価値が何処にあるのかは自明である。オペラにおいては、あくまで音楽が主であり、演出は従、あるいは副次的なものだ。
演出家が芸術的価値の源泉である音楽に大鉈を振い、曲の順序を入れ替え、作品を破壊するというのが、如何に主客転倒の暴挙であるかは、上記から既に明らかだと思う。

【楽譜がオペラ上演のバイブル】
オペラが成立しているのは、作曲者が完全な楽譜を残しているからだ。楽譜がオペラ上演の唯一無二の拠って立つべきテキスト、謂わばバイブルである。一方、演出には詳細なテキストはない。だから、さまざまな置き換え手法を含めて、演出家の裁量の余地がある。ここに芸術的な付加価値が生まれうることは、オペラファンであれば誰しも認めていることだ。今回の上演で、コンビチュニーが前衛的な演出を試みることも織り込み済みであり、(音楽を改竄しない限り)何をやって頂いても結構だ。
しかし演出が、動かしようのないテキストであり芸術的価値の源泉である楽譜を改竄することは、演出家として超えてはならない一線を飛び越えてしまっていると言わざるを得ない。作曲者が命を削って創作した楽譜を最大限尊重せずに、何がオペラ上演かと言いたい。

【古典芸術作品は原典が尊重される】
考えてみると、芸術のジャンルは様々あるが、古典と呼ばれる芸術作品のほぼすべては、原作がそのまま大切に保存され、一切手を加えずに鑑賞されている。美術然り、文学然り。絵画や彫刻作品を展示する側が作り替えるなんてことは起こりようがない。出版社が小説の結末が気に入らないからと言って、カットして出版するのか? クラシック音楽だって、ほとんどの演奏者は楽譜の原典を最大限尊重している。
何故、オペラだけが違っているのか。私には不思議でならない。オペラ上演でのみ、「演出」の名のもとに、本質的価値のある原典の音楽を弄び、完膚なきまでに壊す所業が罷り通っている。本当におかしなことだと思う。
(注記:ここでの議論は、絵画や彫刻などの作品、言語で記述されたテキスト、音符で表現された楽譜などの動かしようのない物理的存在を前提としている。一方、明確な創作者によるテキストのないジャンル - 例えば古典落語 - においては、より自由な改作も含めた表現活動が行われていることは承知している。)

【「影のない女」の原典の鑑賞を期待していた】
今回のプロダクションに関する私の個人的期待は、Rシュトラウスの傑作オペラの上演を鑑賞したい、という一点に尽きていた。「影のない女」は滅多に上演される機会がない。私は実際の舞台を観た経験はなく、本上演に関するクラウドファンディングに参加したのも、是非このオペラの上演を実現して頂きたい、という純粋な気持ちからだった。
私は、芸術作品を鑑賞するにあたって、まずは原典をありのままの形で受け止めたいと思っている。原典に盛られた創作者の情熱、感情、思想、考え方などをそのまま受け止めて、自分なりに理解し、解釈を加え、咀嚼したいと思うのだ。私は芸術鑑賞とはそのような行為だと思っている。
舞台芸術の場合、表現者が存在しない限り鑑賞は不可能だ。そこが美術や文学との大きな相違点である。表現者のフィルターを通してしか作品を鑑賞することができない観客の立場としては、表現者の解釈は、原典をより正しく伝えることに資するものであって欲しい。表現者が原典を気に入らないからと言って、恣意的に切り刻んで自分の気に入るように改変するのは、表現者として禁じ手の領域だと思う。作品の内容が如何なるものであれ、観客は原作ありのままの作品を受け止めることができるべきだ。受け止めた結果として、それをどう評価するか - 受容するか拒否するかを含めて - は、観客が決めればよいのだ。それが観客の正当な権利である。表現者が勝手に何を伝え、何を伝えないかを決めるのは、創作者に対しても、観客に対しても不遜以外の何ものでもない。

【芸術作品は時代の制約を受ける】
聞くところによると、コンビチュニーは改変の理由として、作品の内容が女性蔑視的で今日の価値観には適合しないので、そのまま上演するわけにはいかない、と言っているようだ。真剣にこんなことを考えているとしたら、まさしく噴飯物だ。いい年齢をして、とんでもない勘違いをしているとしか言いようがない。
すべての芸術作品は、それぞれの時代における社会的、文化的な制約のもとで制作されている。現代の価値基準からすれば、おかしなことだってたくさん含まれていて当たり前だ。それが気に入らないからと言って改変するならば、無傷で済む芸術作品は少ないのではないか。例えば、「蝶々夫人」もコンビチュニーの手に掛かれば「女性差別的」として大改変の対象となるに違いない。
そもそも、コンビチュニーの演出だって、現代の社会的、文化的背景によって規定されているものだ。彼が拠って立っていると言われる「ポリティカル•コレクトネス」と呼ばれる考え方も、今の時代の産物だ。これが数十年後にどのように評価されているかはわかったものではない。それぞれの時代において、価値観が変遷するとともに、いちいち芸術作品が改変されてしまえば、原典は影も形もなくなっていくだろう。それがおかしなことであることに、コンビチュニーは気付かないのだろうか。

【文学では原典を読むのが当たり前】
コンビチュニー流の考え方に則れば、おそらく最も槍玉に上げられるべき芸術分野は文学だ。文学は、言語が素材であるため、その克明さにおいて他の芸術分野を圧倒する密度を持っている。そのため、文学は、現代の基準に適合しない価値観を最も詳細に叙述することができる表現形式だと言える。それに、オペラよりも読者は幅広く影響力は大きい。安価かつ容易に入手、鑑賞が可能だからだ。文学と比べたら、オペラの提供している情報量、その観客数、影響力の範囲なんて知れたものだ。
文学作品の古典の中には、あらゆる差別、暴力、古い価値観が詳細に記述された作品がいくらでも見つかる。しかし、私の知る限り、文学を切り刻んだり章立てを入れ替えたりして改変する小説家、文芸評論家、出版社などは存在しない。どんなに今日的基準に照らして受け入れ難い内容が含まれていても、古典文学作品はそのまま読むのが当然だとされている。
もう一度問う、何故オペラだけが改変されなければならないのか。

【芸術作品の鑑賞とは】
古典芸術作品の鑑賞の意義とは何か。それは、作品の中に表現されている‘人間の真実’、時代の制約を超えた‘人間の本質’を感じ取ることにあるはずだ。時代の制約がもたらす古臭さや今日的には受け入れ難い価値観は、言われなくとも受け手がきちんと分別している。それくらいのことは我々が普通にできるのだ。
彼は、新聞のインタビューの中で「時代が変わっても変わらない人間の本質を浮き彫りにすることが、オペラ演出家の仕事」と言っている。人間の本質、それはその通りだ。しかし、私はコンビチュニーのフィルターを通した‘人間の本質’には興味がない。あくまでRシュトラウスとホフマンスタールが提示した作品そのものから、彼ら創作者が表現した‘人間の本質’を私自身で掴み出したいのだ。それが芸術鑑賞というものではないのか?
どうしてもコンビチュニーは自分のフィルターを通した‘人間の本質’を観客に見せたいのか?それなら、自らの完全オリジナルな作品を創作すべきだ。それなら文句を言う筋合いはない。あるいは、Rシュトラウスの音楽はそのまま尊重し、その上で演出の範囲で自らの主張を展開するなら、わからなくはない。その努力もせず、昔の大芸術家の作品を自由気儘に切り刻みつつ、自分の主張を観客に無理強いするとは、ほとんど‘他人の褌で相撲を取る’に近い姑息な所業ではないか。

【演出家に啓蒙される謂れはない】
コンビチュニーは、原典をそのまま上演すると、観客が「女性蔑視」の価値観に影響されてしまうとでも心配しているのだろうか。私を含め、ほとんどの観客にについては心配ご無用だ。皆さん、批判的に受け止めるべき点はそのようにする見識くらいは持っている。それを信頼できないとすれば、それは観客を蔑視しているとも言えるのではないか。少なくとも、「この俺様が啓蒙してやる」という’上から目線’であることはほぼ間違いない。ふざけてもらっては困る。私はコンビチュニー如きに啓蒙される謂れはない。

【演出チームによる傲岸不遜な押し付け】
本上演のパンフレットにドラマトゥルクのバルツが「どうすれば『影のない女』を現代の観客のために救えるのか?」と題する寄稿をしている。これを読んでわかることは、コンビチュニーを含む今回の上演の演出チームが、この作品を心底嫌っていることだ。曰く、この作品は「救いがたい出来損ない」で、「今日の私たちが道徳的に納得できる上演は、読み替えによってのみ可能になる」のだそうだ。そして、最もけしからん「めでたしめでたしのラストシーンはもちろんカットする」。Rシュトラウスの美しい音楽は、「この作品の(悪しき)真意を覆い隠すよう」に作曲されたとする。
演出チームが作品についてそういう理解と解釈をするのは自由だ。しかし、それを観客に「これが正解だ」として無理やり押し付けるのは、如何にもおかしい。私の立場は、原典にあたってみて、自分自身で何が正しいのか判断させて欲しい、ということに尽きる。繰り返すが、これは観客の正当な権利だ。今回の上演は、観客の自主的な作品の評価の機会を完全に奪っている。その罪深さについて、演出チームは思いを至したことはないのだろう。観客は、本上演を観てこんなもんなんですかね?とポカンとするのが関の山だ。自分たちの解釈が、唯一無二の現代の観客に対する作品の救済だ、と信じ込んでいる人たち。上から目線も極まっている。作品に対しても、観客に対しても傲岸不遜以外のなにものでもない。
だいたい、そんなに作品が嫌いで出来損なっていると思うんだったら、最初から上演に関与しなければいいのだ。嫌々出てきて無茶苦茶なことをされたら、観客がいい迷惑だ。
そう考えると、この上演を企画した二期会の責任が重いことがわかってくる。公演パンフレットの中には、このプロダクション実現の経緯として、二期会主導でコンビチュニーを起用し、それからドイツのボン歌劇場に共同制作を持ちかけたという記述がある(ボン歌劇場総裁ヘルミッヒ氏)。そうすると、出来損ないとして作品を心底嫌っているチームをわざわざ二期会が連れてきたということか。びっくりする話である。
ついでに言っておくと、二期会の方と会場で会話したところでは、今回のようなカットが行われるということは、二期会としてもチケットを売り始めた時点では知らなかったと言うことだ。この点でも観客はいい面の皮だ。人を馬鹿にするのも大概にしろと言いたい。お金を返せ、と野次が飛ぶのも当然だ。

【醜悪そのもの光景】
今回の一件から見える演出家の傲慢。姑息。古典作品へのリスペクトの欠如。観客に対する上から目線。醜悪そのものの光景だ。こんなものは二度と見たくない。
そして、この’醜悪’を容認してまで、今回の上演を主導した東京二期会。そのブランドは地に落ちたと言うべきだ。お客を舐めるな!と私は言いたい。

【結論】
オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか。答えは否、以外は有り得ない。この答えをコンビチュニーと共有することは不可能だろう。だから、彼とは今日を期して絶縁する。コンビチュニーを支持する人たちとも縁を切らせてもらう。
この際、「オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか」について、二期会の責任ある見解を伺いたい。もし二期会とも「否」の答えを共有できないなら、コンビチュニーと同じく絶縁する以外の選択肢はない。


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