【補論】オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか ~ 古典文学作品の取り扱われ方に関連して
拙稿「オペラ上演において、演出家の裁量による音楽の改変は許されるのか」の中で、文学について次のように述べた。「文学作品の古典の中には、あらゆる差別、暴力、古い価値観が詳細に記述された作品がいくらでも見つかる。しかし、私の知る限り、文学を切り刻んだり章立てを入れ替えたりして改変する小説家、文芸評論家、出版社などは存在しない。古典文学作品はそのまま読むのが当然とされている。」この部分は、文学作品との対比において、演出家がオペラを改変することが非常におかしなことであることを示すための指摘である。
この論点に関連して、一つの具体的題材を提供したい。それは、ドストエフスキーの「白痴」についての発行者の意見表明である。ロシアの文豪による大長編小説は、主人公のムイシキン侯爵が白痴とされる設定の下に執筆されており、「あらゆる差別、暴力、古い価値観が詳細に記述された作品」の典型例の一つと言えるだろう。
この作品を発行するにあたって、出版社である光文社は、編集部によるコメントを巻末に掲載している。以下、全文引用する。
「本書には特定の病気や民族に対して『癲癇病み』や『転々とするジプシー』など、現代では用いるべきではない差別的な用語・表現が使われています。また、『気が狂う』『もう本物の精神病院だ!』など、精神病に関する差別的な用語・表現・揶揄も用いられています。これらは本書が成立した1860年代当時のロシアの社会状況と、未熟な人権意識に基づくものですが、主人公ムイシキン公爵をいわゆる白痴としている本書の根幹にかかわる設定と、その彼を取り巻く人物との物語であることを深く理解するためにも、編集部ではこれらの差別的表現についても原文に忠実に翻訳することを心がけました。
それが今日も続く人権侵害や差別問題を考える手がかりとなり、ひいては作品の歴史的・文学的価値を尊重することにつながると判断いたしました。もとより差別の助長を意図するものではないことをご理解ください。」
私は、このコメントの中に、ジャンルを問わず古典芸術作品を読者、観客に提供する立場の者がとるべき正しい考え方が見事に表明されていると思う。それは主に以下の三点に集約される。
第一に、作品の中に登場する差別的な表現が当時の社会的、文化的背景とその制約によるものであることを指摘していること。
第二に、この小説の設定と物語の構成をよく理解し、それを読者に伝えるために、敢えて原文に忠実に翻訳していること。それが、作品の歴史的・文学的価値を尊重することだと考えていること。
第三に、差別的表現を敢えて残すことによって、今日も続く人権侵害や差別を読者が考える手がかりを提供するとしていること。
私は、ここに述べられていることは大変立派な見識であり、文学だけではなく、オペラを含むあらゆる芸術分野に適用可能な普遍的考え方であると思う。特に重要だと思う点が二つある。
一つは、古典文学作品の芸術的・歴史的価値を認め、それに対して、作品の提供者として敬意をもっていることだ。敬意があればこそ、今日的には容認できない差別的表現があったとしても、それに敢えて目を瞑り、原作そのままを読者に提供しようとしているのである。
二つ目は、このコメントから読者に対する深い信頼が感じ取れる点である。仮に差別的表現に触れることがあったとしても、読者がそれに感化されることはないだろうし、むしろ今日的な差別問題などへの考察を読者が行ってくれるだろう、という信頼だ。
翻って考えてみると、この二つの観点は、先般の「影のない女」の演出チームに最も欠けているものだと言えるだろう。彼ら演出チームは、オペラ「影のない女」に対する敬意などかけらも持っていない。そして、観客に対しても、我ら演出チームが改変したものを提供しなければ、ミスリードすることになる、という上から目線の立場であることは間違いない。
私は、光文社編集部の考え方に完全に共鳴し、それを高く評価する。彼らの見識によって、ドストエフスキーの古典を新しい翻訳(できるだけ原文に近い翻訳)で読むことができるのだ。そして、自分自身の頭脳で作品を理解、咀嚼することもできる。すなわち、この作品がいかなる歴史的、社会的背景のもとに書かれたのか、その中で現代に生きる私たちがつかみ取るべき「真実」とは何か、作品の中に述べられている差別が今でも生き残ってはいないか、もしそうだとすればそれは何故か、等々。これらについて、思索をめぐらすことができる。原作が忠実に提供されていればこそだ。これこそが、古典芸術作品を鑑賞するという行為であり、その楽しみであるはずだ。
「影のない女」の演出チームが、本来あるべき古典芸術作品を観客が鑑賞する機会を無残に奪ったことは既に言うまでもない。彼らは、古典芸術作品を観客に提供する基本的資格に欠けていると私は思う。作品への敬意、そして観客への信頼が根本的に欠如しているからだ。
東京二期会にも申し上げる。古典芸術作品を取り扱う広い意味の同業者として、光文社の編集者を少しは見習ってはいかがか。古典芸術作品としてのオペラをもっと大事にしてほしい。そして、’偉い’演出家の方ばかり向いているのではなく、観客のことをもっと信頼し、大事にするべきだ。
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