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室田尚子様の「オペラが『生きた芸術』であるために」について

宇野秀和と申します。長年のオペラファンの一人です。今回の「影のない女」上演はクラウドファンディングに参加し、上演は最終日を観劇しました。
室田様の論考を興味深く読ませて頂きました。大変冷静な論点整理がなされており、少し頭がヒートアップしている身としては、クールダウンするために有り難かった次第です。
やはりもっとも気になる論点は、女性差別的テーマとその上演における取り扱い方です。私も、このオペラのテーマが女性差別的で、今日的価値基準からすれば否定されるべきものだということに概ね異論はありません。
しかし、こうした作品に関する評価が今回の上演のやり方を正当化するものではない、とも強く思う次第です。
古典芸術作品を現代に発信する場合、その内容と現代の価値基準に抵触が起きることは多かれ少なかれ避けられません。抵触がある場合、どうすべきなのか。
室田様は「読み替え」を奨励しておられますが、私は異なる意見を持っています。上演を実施する以上、まずは原作を忠実に表現するべきだと考えます。但し、その際に上演を実施する側として、当該作品にはこのような容認できない問題点が内包されている、と問題指摘を行うとともに、そうしてまで原作どおりに上演を行う意義について説明すべきだと思うのです。(別投稿で出版社の光文社がドストエフスキーの小説出版の際に発表している意見表明を紹介しています。)それでも上演を行う意義とは、原作の芸術的価値を観客に伝えることしかあり得ないと思います。
もし、原作に芸術的価値がなく、上演に耐えられないと判断するのであれば、上演を取りやめればいいと思います。あるいは、演出を依頼されても断ればいいのでは。頼まれたからといって仕事を受けて、価値がないものを無理やり読み替えて上演するというコンビチュニーの姿勢には問題があると思います。こういう場合は上演に関与しないのが潔い身の処し方ではないでしょうか。こんな価値のない作品の上演に関わることは出来ない、と言って欲しかったです。今回の上演で、芸術的価値がない作品を切り刻んで、果たして何か新たな芸術的価値が生まれたのか。室田様の論考を読んでも、女性差別的要素が除去されたことはわかっても、新たな芸術的価値が生まれたとまでは評価されていないように受け止めました。要するに、ダメなものはどんなにいじってもダメなのでは。
もう一つ、繰り返し述べていることですが、私としては、まずは一度実物を見せてくれませんか、ということを強く希望したいと思います。その実物が如何にダメでヘンテコなものであっても、お金を払う以上、一度は見る権利があっても良くはありませんか。本当に原作には芸術的価値がないのかもしれませんが、私は見たことのないものにそのような判断をアプリオリに下すことは出来ません。クラファンに参加したのも、まずは上演を実現して頂いて、実物を見る機会を作って頂きたいからに他ならないのです。実物をみた上で、最終的には自分でその良し悪しを判断させて欲しいと思います。偉い演出家の先生、音楽評論家の先生が先に作品を吟味して、小骨を取り除いて食べやすくしましたよ、という読み替え作品を最初から鑑賞したくはありません。ある程度の判断力は持っているつもりですので、もっと人を大人として扱って欲しいと思います。作品が「死んでいる」かどうかも、現物をみた上で、自分の頭で判断したい。
今回の演出の最大の問題は、極端な短縮化とストーリーの組み替えによって、観客から原作に関する自主的な判断の機会を奪っていることにあると思います。現物を見た結果として、室田様のご意見に同調することになることもあり得ます。でも、それは最初から決まっていることではありません。
私が申し上げたいことは、以上のようなシンプルなことです。今回の「影のない女」上演と同じようなことは、二度とあって欲しくありません。

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