無心で理想を追うこと。

分かっている風なことを書きます。実際のところは、何も分かっていないにも関わらず、です。
不快に感じられたなら、申し訳ないです。

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 高校生時代に友人から短歌を教わり、浪人を機に自分も短歌を始めた。右も左もわからぬまま短歌を詠んでいたので、当然、賞などは自分には縁遠いものだと思っていたが、どのような歌が、どのような基準で選ばれているのかなどには興味を持っていた。そんな折に、ある賞に対して熱量を持って取り組んでいて、受賞作の発表を待ち望んでいる様子の人を見かけ、一週間程度なんとなく投稿を追っていた。
 世の中というのは儘ならないもので、結局、その賞を受けたのは、自分がたまたま見つけて幾分か応援の気持ちすら抱いていたその人とは別の人だった。随分あっさりと、誰かがニュースを共有しただけの投稿で、受賞が別の人だったと知った。烏滸がましいことに、僕は胸に痛みを感じた。

 短歌というのは、僕の浅い理解では、一種の文学であって、さらに広げて言えば一種の芸術であって、善し悪しの見解は人によるものだ。技術面における評価はある程度一致するだろうが、詩的か否かという点では各人の人生経験の一々が評価を左右しそうだと感じている。であれば、短歌の賞というものは、どれだけ輪郭の定まらないものなのだろうか。知識も経験も浅い僕にはまだ分からない。

 ところで、僕は数学科志望であって、数学の純粋さを信じている愚かな人間のひとりだ。ゲーデルの為したことが数学を否定するに足るかと言われれば自信をもって否と言う。
 短歌においても、数学における僕と近い理想を持つ人は一定数いるようで、僕が陰ながら応援していた人もまた、そのうちのひとりであったようだ。短歌において、客観的評価と主観的評価の双方において完璧なものがあるという夢を、その人は見ていた。そして、夢から醒めた。主観では完成に至っていたものが、審査員にはそう映らなかったのだから、当然かもしれない。

 また、僕の胸が痛んだ。今度の痛みは、同情だとか憐憫だとかいうものではなくて、もっと根源的な深いものだった。その人が短歌に関する理想を捨てるということが、僕がいつか数学に関する理想を捨てることを示唆しているように思えたからだ。自分の才能の限界を感じながら、同時に自分が信じているもの自体の限界を感じながら、「そんなことは数学それ自体には(短歌それ自体には)関係がないことだ」と無心で向き合い続けるのは、痛みを伴うものだ。
 僕は、その痛みに耐えながらも短歌を作り続けていたその人に最大限の敬意をもっているし、自分が信じていたものから離れようという勇気にも感服している。
 こんなことを言えば偉そうになってしまうから、僕がもっと偉そうでない良い言い方を持っていればいいのだけれど、あいにく僕には相応しい語彙が見つからなかったので、読んでいるかもわからないその方に、月並みな言葉を送ります。本当にお疲れ様でした。

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 最後に、ぜひ読んでほしい本を紹介します。

『青の数学』王城夕紀
『青の数学2―ユークリッド・エクスプローラー―』王城夕紀

 この本は、僕が自分の才能に見切りをつけようとしていた頃に出会った本で、僕に、とにかくやり続けていけばどうにかなるかもしれないと思わせ、前を向かせてくれた本です。内容については深くは触れませんが、数学好きでなくとも楽しめないことはないと思います。数学好きなら言わずもがな。(『青の数学』についてはまた別の機会できっちり触れたいと思っています。)
 夢を諦めかけているときに、ぜひ読んでみてください。

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