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哲学対話で平等を考えてみると

先日、哲学対話をしました。
参加者はそこまで多くなかったですが、テーマは「平等」でいろいろと話しながら考えられました。

そこでせっかくnoteをはじめた(これが3回目の投稿です)ので、哲学対話をする前後で自分の考え/言葉がどう変わるのか、どんな考え/言葉が生まれていくのかを残してみようと思います。

対話前に自分の平等についての考えを予め書いておいて、対話後に再び平等についての考えを書き加えたものを投稿します。

このはじめには対話後に書いていますが、自分の思考の変化が可視化されて思った以上に面白いです(ただの自己満足です…)。

哲学対話を通してどんなふうに考えが変わっていくのか、はたまた変わらないのか。平等とはなんのか。気になったら読んでいただけると幸いです。


対話前 ~平等なんてきれいごと~

平等ってきれいごとなのでは?と卑屈な感じ方をしてしまいます。

運と平等が根っこではつながっていると考えていて、「運だからしょうがないよね」で片付けてはならない部分で平等を目指そうとするんじゃないかと。

当然、“女性だから・・・”なんていうのは、たまたま女性として生まれただけなのにその差別は不遇があるのは問題だよねって。だから、不平等と考えて平等になるべきだって考えられるんだと思います。

でも、たとえば不登校だったらどうでしょうか?
今では不登校に対しての見方や支援などは大きく変わって本人のせいじゃないっていう捉え方は一般的になりつつあると思います。いじめを受ける、クラスとの相性、担任の先生がどんな人か、家庭環境がどうか… これらは子ども自身では決めようがない、改善を求めることに限界のある運みたいな部分が大きいですよね。なのに、結果的に不登校という結果になってしまう。それってただの運じゃないですか?
ただ、それでもやっぱり現場や実際ではどこかで本人の責任もあるとか、努力や意識の問題だって、そういう認識があるんじゃないかって。だから、不登校になって学校に通えなくて、十分な教育を受けられないということが「不平等だ」ってどこかで思いきれない。それで不登校への支援や認知がイマイチになるのではないかと思います。

でも、だからと言ってなんでも運と捉えていっては何も始まらないのも事実だと思います。「○○ガチャ」という言葉が流行ったように、すべてを運だと決めつけて、だから私のせいじゃない、関係ない、不平等でしょうがないってことにしてしまうのは、どうなんでしょうと思ってしまうのも本音です。まして、それを理由に努力しなくていい免罪符にするのは少し違うのでは?とどこかで思ったりします。

結局は平等なんてその人の置かれた立場や目線で変わってくるもので、決まらないのに変に「平等」を目指すからごちゃごちゃするのでは?って偏屈な考えをしてしまいます。

対話後 ~平等とは、残酷さに気づくための補助線~


まず率直な感想として、やっぱり哲学対話は楽しいです。

それはそうとして、平等についての考えは少し変化しつつも本質は変わらなかったかなという感じです。

やっぱり、平等ってその人の目線や立場で変わるもの。だから、余計に物事をややこしくするもの。という感覚は残っています。

ただ、だから平等なんてどうでもいい、とはならないなという前向きな考えが出てきました。

「平等とは、残酷さに気づくための補助線である。ただし、乱暴にその補助線を引けばいいわけじゃない。共感するためでなければならない。」

というのが対話後の結論です。

数学の図形問題でよく補助線を入れることで問題の解法に気づくっていうことがありますよね。補助線の1本が大きなヒントになるような問題。

それと一緒で、平等っていう補助線を現実に引くことで自分がいま置かれている状況の残酷さ、辛さに気づけたり、誰かの辛さに気づいたりすることができる。そして、その残酷さは決してしょうがないとは言えないのだと気づけるのかなと思いました。

ただし、数学の問題でも補助線をむやみに引けば問題が解けるわけではなく、むしろ補助線ばかりになって問題がなんだったかわからなくなるのと同じように、ただ平等を主張すればいいとは限らず、まして自分の要望を押し通すためだけの道具として使ってはならないのだと思います。それをしてしまうと、なにが問題の根幹かを見えにくくして本当の平等が実現できなくなるのかなと。

だから、平等という補助線を引いていくのは共感し合うためにするんだと思います。自分の現状の残酷さ、辛さに共感しようとしてもらうため。誰かの辛さ、残酷さに気づくための補助線だということを前提にしていくことが必要なんだと。

でも…
じゃあ、残酷さに気づくために必要な補助線を的確に引くことはできるのか?結局は自分主観でしかなくて共感もなにもなくなってしまうのでは?そもそも共感なんてどうやってやるのか?残酷さに気づいたとしてどうするの?・・・

と、無数の問いが生まれてきます。

だから、やっぱり平等なんてその人の目線や立場で変わるものと思ってしまう部分もあります。

対話の途中で「平等は多様性の実現」という言葉に参加者のみんなが同意しようとした場面がありました。そこまでの対話も含めて私は「あっ、多様性だ。」と思いました。

まさか多様性とこんな形で出会うとは。
平等を実現しようとしていくことは平等を保とうとすることでもあるのかもしれないです。

そして、対話の最後には「平等って希望かもしれません」という言葉がありました。
きっとそうなんだろうと。平等というものに託してなにかを変えてくれるかもしれない、なにかより良くなるのかもしれないと思うことが平等の1歩目なのだと思いました。

おまけ  ~哲学対話ってどんなものか~


ちょっと長くなり過ぎましたが、メインの内容は先ほどまでです。この先はおまけとして哲学対話について少しだけ書きます。

ここまでを読んでもらってわかる通り、哲学対話をしたからといって答えなんて出ません。自分の考えや価値観が根底からひっくり返るような強烈な経験になるとも限りません。今回の自分のように、意見は少し変わるけど基本的に変わらないなんてことも自然です。

だからといって対話することが無意味とはならないはずです。
少なくとも「平等とは、残酷さに気づくための補助線である。」なんて言葉は対話しなければ絶対に出会わなかった言葉であることに間違いありません。

こういう言葉に出会っていく、見つけていくということを他者と共に向き合いながら経験することが哲学対話なのだと思います。

長い、長い文章をここまでお読みいただきありがとうございました。

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