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「素直に考える」を思い出す

投稿は2回目ですが、前回は自己紹介だったので、ちゃんと「考えていること」について書くのは初めてになります。

でも、こうして何を書こう?って考えている、この“考える”ってなんですかね?

だれかに読まれるかもしれない、だれかに同意してもらいたい、知ってもらいたい…と考えて書いてしまったら、それはもう私の書きたいことではないかもしれません。どこかで聞いた、読んだ言葉をつなげて、取繕って言葉にしていくしかないという限界。
でも、そんなことを考えずに書くことはできないということも事実なんだと思います。

なんかいきなり曖昧で、自分でもよく分からないことから書き始めてしまいました笑


ここからはちゃんとタイトルにある「素直に考える」について書きます。

この前、モスバーガーを買いに行きました。
そのとき、先にレジでお父さんとお子さんの親子連れが注文していました。

お父さんが「オレンジジュースにしようか? あっ、でもコーンスープもあるよ?」と相談しながら決めようとしていました。するとお子さんが「ハッピーセットは?」とポツリと尋ねました。
お父さんは苦笑しながら「ここじゃないよー」と訂正していました。

※ちなみにモスバーガーで子ども向けメニューは“ワイワイセット”らしいです

結局、メニューを決めておもちゃを1つ選べることになって、その子は嬉しそうに品定めをしながら選び、満足そうにしていました。

見ている側としては微笑ましい光景でした。

でも考えて見れば確かに、子どものときなんてハッピーセットとか、おまけのおもちゃの方がハンバーガー自体よりも、メインのメニューよりもよっぽど重要事項でした。

きっとその子もハッピーセットがあるのか、おもちゃがあるのかどうかは超重要事項だったはずです。頭の中で考えていることは「ハッピーセット」で大半を占めていたんでしょう。

だから、たとえモスで「ハッピーセットは?」と聞くことが憚られるとか、文脈がちがうとかどうでもいいんですよね。というか、頭の中はおもちゃがもらえるかと好きなものが食べれるかどうかで一杯で、場違いかどうかとか、ここはどんなところかなんて考える余白もないのだから。

でも、大人になっていくと自分の頭の中にあることよりも他人のこと、その場の文脈を優先するようになる。というか、優先しなければいけないのだと。そして、素直に考えることがどういうことかわからなくなっていくのかなって思います。現実はこうだから、いまはこうだから。だから、こう考えることが妥当だよねって。

それって、本当に自分が自分で考えているんだろうか?
そんなことを考えました。

「迷惑をかけるな」「わきまえろ」。こういった命令形は、他者や世間による、自分自身の可能性へのリミッターとなっています。自分がしてみたいこと、興味のあること、気になっていることも、「迷惑をかけるな」「わきまえろ」といった他者比較や他者評価の基準で自己点検し、その範囲内でやっても許されると確信が持てたらする。そうでなければ諦める。

ケアしケアされ、生きていく 竹端寛 より

もちろん、社会の中で生きていく以上は他者を気にかけて、適度に折り合いをつけることが大切だと思います。

でも、せめて自分の中では素直に、自由に、好きなようにまず考えて、「自分の考えていること」ちゃんとわかりたいなと思いました。

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