母と梨
2024.9.21
昼間はまだ猛暑が続いてますが、空は秋の雲、 夜は虫の音、季節は変わりつつあります。店頭には、葡萄に梨や早生みかんが並び昨日は柿が出てました。
9月末から10月になると、母から地元の梨の新高が送られてきます。母には生まれ育ち今も暮らしている熊本県荒尾市の梨へのこだわりがあります。
結婚するまでは一面の梨畑で育ってますから、すこぶる大きくて甘い新高の出回るこの季節は母の中では懐かしさを噛み締める時期なのです。
荒尾梨は熊本や九州でも名が知れていて、特に新高の品種は赤ちゃんの頭くらいあるジャンボ梨が特に有名です。
何故母が梨に思い入れが強いのか、それは私からみて、母方の祖父母の話から始まるのですが。
祖父母は福岡県柳川市にそれぞれ生まれています。祖母は母親を早く亡くして荒尾の叔母に育ててもらうため父と兄姉と荒尾に移ります。
祖父は柳川で麹屋を営む家に生まれ いずれは若旦那になるはずだったのでしょうが、学生の時両親が亡くなり叔父に商売を譲り姉達と荒尾に出てきます。その後商売は缶詰屋に変わり、たくさんの人を雇い繁盛したようです。後の母の話ですが、祖父は一人だけ生まれた女の子である母を連れて柳川の実家に帰った時、雇い人の人達が蟹やら大きな魚やらご馳走でもてなしてくれてとても可愛がってくれたそうです。
祖母の父は荒尾で瓦焼き屋をしながら土地を買い梨を育てました。荒尾はもうすでに梨の産地になっていたようです。その後祖父母は荒尾で出会って結婚するのですが、祖父の姉と祖母の兄も結婚するという、姉弟と兄妹のもらい合いこ というものです。
話がややこしくなるのでこの図で。
祖父 姉
✖️
兄 祖母
ややこしいので祖父母の一家をA家、兄姉の一家をB家と呼ぶことにします(^.^)
たぶんお互い近所に住んでいたのだと思います。このあたりは 母から聞き漏らしてます。
A家には6人の子供、B家には5人の子供が生まれます。しばらくして戦争の波が押し寄せます。梨山のほとんどは軍が買い取り軍の変電所になり、梨農家は皆散り散りになります。隣町に近い所に梨山を築く人もいたようで、祖父母A家も隣町玉名市の築地(ついじ)に移り梨を植え付けて新しい生活を始めます。
B家は軍事工場で働くことになり、そのまま荒尾を離れずにすみました。これが昭和15年の話です。
昭和19年長女の母が11歳の時 祖父に召集令状が届きます。熊本市にまず召集されていた祖父から、その後北朝鮮に配属となる葉書が何故かB家に届き、遅くに知った祖母は夫を見送りに母を筆頭に男の子達3人手を繋ぎ、一番下の赤ん坊を背負いながら一家6人急いだものの祖父はすでに出発した後だったそうです。
煮しめやぼた餅などご馳走をたっぷり作って持参したのが無駄になり、結局 まだ配属先に出発していない兵隊さん達に渡してきたそうです。
終戦を迎え祖父はマラリヤに罹ったまま鹿児島に上陸し復員しました。夜になると猛烈な悪寒がきて祖母は布団を掛けて震える夫を押さえて温め看病しました。それでも1年は生き延びてくれたそうです。
祖母は5人の子供を連れて荒尾に戻ります。
梨山の土地を持っていた地主は、軍が手放した土地に戻れる人と戻れない人がいたそうです。
その築地の家には、古今和歌集や万葉集や とても立派な書物がたくさんあり、祖母はあまり関心がなかったのでしょう全部家ごと売り払ってきたそうで、母は今思えば本当に惜しいことだったといつも悔やみます。祖父は教養のある人だったようです。
祖母達は土地は戻ったものの住む家がないので、まずB家の小屋に住まい、その後父親がそばに小さな家を建ててくれました。
B家は元の土地を返却された後また梨を作ります。
祖母はB家の梨の袋掛けを手伝ったり、ある人に豆腐の作り方を教えてもらい豆腐屋を始めて売り歩いたりして生計を立てます。
母を初めどちらの家も同じぐらいの子供達同士、梨山で遊んだり手伝ったりして梨山の拡大と共に大きくなっていきます。この頃が一番楽しかったと母は言います。いとこをマーちゃん、ターちゃんと呼んだり、母は文子だから フンちゃんと呼ばれ、弟達もタッチん、ミッチんなどと呼び合い、今も昔の呼び名で私に話してきかせてくれます。
祖父の姉は4人いるそうですが(一人はB家)皆 良い所に嫁ぎ、祖母の姉弟(兄はB家)もそれぞれ安泰の家庭を築き、祖父だけが可愛そうな人生だったなと私は思います。が母はそんなことは言いません。
戦中戦後は皆同じような運命の人ばっかりだったとはっきり言います。
地元で母が結婚して私が2歳で 弟が生まれたばかりの時B家を訪れた写真が残っています。
私この時のことを憶えているんです。芝生の上で 母のいとこのマーちゃんが私の隣に寄り添って一緒に写真に写ったこと。この家に行くと皆「 みっこちゃん、 みっこちゃん」と呼んで可愛がってくれたこと。
その後私も少し大きくなった頃、お爺さんお婆さん(B家夫婦)は梨の仕事する時以外は着物をいつも着ていたこと。法事だったのかな、親戚が集まった時も大人達は皆 着物に紋付きを着ていたこと、よく憶えています。母は実家に里帰りする時は必ずB家にも私と弟を連れて行きました。
今もB家は梨農家を継続中です。母のいとこのターちゃんは一番末っ子。この人が後を継ぎ、そしてその息子さんが継いでいます。といっても私くらいの年齢でしょう。
母は 毎年ここに依頼して新高を送ってくれます。
いとこは4人存命なのかな?
母の弟達4人は逝ってしまい母だけになりました。
何年かかけてポツポツと母の話を聞いて、繋ぎ合わせるとこういった話になってしまいました。
母は今年91歳。戦前や戦時中を語る人達はだんだんいなくなります。そんな中、辛かったことだけでなく楽しかったこともあったことがせめてもの救いです。
それが母にとっては 広い梨山で弟達やいとこ達、叔父叔母に囲まれて過ごした濃密な時代があったことなのです。
今年も 送られてくる新高を楽しみにして待ちたいと思います。
トップ画像はクリエイター 高木美香様より
拝借しました。ありがとうございます。