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宝山鋼鉄との合弁解消に思う   「ジャパノミクス」ってなんどいや(25)

第25講 「異質論」と自由主義

先日、日本製鉄は「宝山鋼鉄」(宝山宝武鋼鉄集団傘下)との合弁を解消する、とホームページで発表しました。

「宝山鋼鉄」の上海宝山製鉄所は、鄧小平の指導の下、開放経済、市場化に向かおうとする新中国を象徴する国家的プロジェクトで、日中経済協力の象徴として新日本製鐵(現日本製鉄)が延べ1万人の従業員を投入し、「スネルの屈折点」の1985年に完成しました。その後、これを題材に、山崎豊子氏が「大地の子」という長編小説に仕立てて、ドラマ化もされましたのでご存じの方は多いでしょう。

ところで、このプロジェクトを全面的にバックアップした新日本製鐵の稲山嘉寛会長や永野重雄会長は、かつてこのように語っていたそうです。

ー「戦後アメリカが近代的な技術をどんどん日本に入れてくれた。今度は日本が発展途上国を応援し、発展途上国が貧乏から脱することこそが世界平和である。韓国のポスコの1基目の高炉も新日鐵丸抱えだった。商売敵をたくさん作ることになったが、そういう国ぐにが経済成長すれば平和になるとの考え方で会社の利益より世界平和を優先させた」ー 

また、鄧小平の改革後、華国鋒によって進められた「洋躍進」政策は、市場経済の整備が追いつかず、資金・人材・技術が隘路となって中国経済は停滞を余儀なくされましたが、この問題の打開に与ったのも、日本の有力な財界人でした。
天安門事件後も、松下幸之助氏(松下電器産業(現・パナソニック))や稲山嘉寛氏といった日本の経済界の重鎮たちが中国経済の近代化への支援を後押しし続け、実際に、インフラや技術支援などを中心に、対中ODA(政府開発援助)は2008年に終了するまで累計3兆円投入されて中国の経済発展、近代化の起爆剤になったのです。

実は、こうした財界人の考え方の背景に、既述の「ジャパノミクス」成功の12番目の要件「  平和な国際環境。ベトナム戦争や冷戦はあったものの、アジア唯一の西側先進国として欧米との協調体制を維持し、東アジアにおける突出した資本主義国家でありながら、深刻な国際紛争に巻き込まれることなく経済成長を謳歌した」がありました。(第16講参照) 

つまり、日本の経済的成功は、周辺に平和的環境が保たれてこそ成し遂げることが出来るのであり、日中経済協力はそれに資するものであるというのが、当時の共通認識だったのです。(実際に、日中経済協力や対韓援助が、実際に周辺の平和的環境の維持に資するものであったかどうかの判断は、後日の歴史的判断に委ねます。

(中国と日本の「異質性」の違い)

ところで、現在、欧米をはじめとする自由主義諸国とロシアや中国とは激しく対立しています。また、自由主義諸国とイスラム主義国やグローバルサウスの諸国の間にも深い軋轢があります。

特に、米中間の経済摩擦は、かつての日米経済摩擦との間に類似性が認められますが、政治的対立も含んでそれよりはるかに険しいものがあります。ただ、米中間の経済対立に限って言えば、貿易の不均衡、技術流出、国内産業保護、安全保障といったもので、これは日米通商交渉を経験した日本人にとってはデジャヴ(既視感)そのものです。

1970年代後半以降の米国経済の沈滞を尻目に、鉄鋼や自動車・電子機器などの基幹分野で日本企業が台頭し、日米間の貿易不均衡がどんどん拡大していきました。そして、この貿易不均衡問題が、経済安全保障を含む「日本脅威論・異質論」へと発展し、政治的な日米構造協議に至ったことは、既にみたとおりです。

今の米中経済摩擦も、トランプ政権が対中貿易不均衡を問題視し、自由主義や民主主義と相容れない「中国異質論」「中国脅威論」に論点が広がってきています。

その論点とは以下のようなものです。

第一に、「政府や党による」広範囲にわたる市場介入が行われていること、
第二に、「政府や党による」市場原理によらない恣意的な資源の配分と価格の統制が行われていること、
第三に、「政府や党による」経済戦略的な特定産業・特定企業への補助金交付が行われていること、
第四に、国有企業、国策会社による独占的支配が行われていること、
第五に、知財権を保護する仕組みが不十分であり、技術の窃取や模倣がまかり通っていること、

そして、興味深いことに、この論点の「政府や党」を「日本の官僚」に読み替えれば、当時の「日本脅威論」に近いものになるのです。
ですからデジャヴを感じてしまうのです。

しかし、同じ「脅威論」といっても、今の中国と当時の日本では全く違っています。

まず第一に、米国にとって、日本の場合は日米安全保障条約下にある政治的友好国の経済的脅威ですが、中国については政治的・軍事的に対立する国の経済的脅威であるということです。
第二に、中国は13億人の人口に支えられた巨大な消費需要を抱えている上、低廉で高度な生産能力によってグローバルなサプライチェーンにがっちり組み込まれてしまっており、今や中国経済を国際経済から切り離すことは不可能であるということです。
第三に、中国人は、中国の経済社会の歴史は欧米のそれよりもはるかに長いという矜持を持ち、逆に欧米の価値観の「異質性」すら主張することができるということです。つまり、中国に対して「異質論」論争はあまり効果がないのです。

この日本と中国の「異質論」の違いは、
日本が伝統的な経済社会に、欧米の自由主義・民主主義の価値観をとり入れて、市場主義を「乗っけている」のに対し、
中国は党の集権主義的価値観の下での経済発展に市場主義を「用いている」という構造の違いにあります。

日本が「乗っけている」市場主義が欧米の基準からみて異質であるならば、それを欧米流の「正しいもの」に改めなさい、ということになりますが、中国は単に都合の良いように「用いている」に過ぎないので、欧米からする「異質論」は受け入れ不能なのです。

日本と中国の「異質性」の違いについて、もう一段深掘りをしてみましょう。

日本では明治維新後、「和魂洋才」という考え方を福沢諭吉が唱えました。「前身に得たるもの(和魂)を以て,今生身に得たる西洋の文明を反射する」べきであるという考え方です。日本では、明治維新でも、伝統的な社会文化的基盤をそのままにして社会の仕組みを変えて、その上に近代資本主義を「乗っけて」経済発展を成し遂げました。こういったことができたのは、これまで述べたように、江戸時代のから、流通市場や金融システム、それに江戸や大坂などの人口集積都市での消費基盤が形成されていたこと、また、武士階級では藩校、庶民では寺子屋や商家など、日本人の平均的な教育レベルが高かったことから、既存の経済社会に西洋文化を取り入れ、近代資本主義を乗せることが出来たと考えられます。

一方、清朝中国でも、日本と同じように西洋の科学技術やシステムを導入しようとする「洋務運動」という試みが行われましたが、これは成功しませんでした。「洋務運動」では、清朝の社会文化的基盤のみならず、経済制度・教育制度・軍制などを一切変えずに、西洋技術のみを接ぎ木しようとする試みであったため、経済全般全般に近代資本主義が根付かず頓挫したのです。

ところが、共産党一党支配の現代中国は、20世紀末頃から資本主義、市場主義を取り入れることに成功し、経済的に大きく成長しました。

その素地は、1982年の全国人民代表大会(全人代)で正式に人民公社の解体が宣言され、鄧小平が「先富論」という指導方針を打ち出したことに始まります。「先富論」とは「先に豊かになれる地域/人は、先に豊かになってよい」という方針で、これは明らかに毛沢東の共産主義思想からは逸脱していましたが、人々の経済的活力や潜在力を大いに刺激するものでした。

鄧小平の経済政策とは、集権的経済計画のなかに、沿海部を中心にまず資本主義・市場主義の特異拠点(特区)をつくり、それを徐々に拡大して線にし、やがて面にしていくというものです。この最初の特異拠点が、四つの経済特区、深圳、珠海、仙頭、厦門です。
鄧小平は、1992年の有名な「南巡講話」のなかで、「資本主義にも計画があるように社会主義にも市場があってよい。計画も市場も経済発展の手段にすぎない」、「姓が社会主義か、姓が資本主義かの論争(姓社姓資論争)をしてはならない」として「新しい社会主義的資本主義」を唱え、党の集権的計画経済は、市場資本主義と矛盾しないと結論づけたのです。

これまでみたように、資本主義は、その理念に関わりなく資本が「格差」という位置エネルギーを糧として、増殖し経済成長を目指します。
鄧小平以降の中国においては、臨海部と内陸部の貧富の「格差」が位置エネルギーとなって、爆発的な経済成長のエンジンとなりました。「先富論」の刺激を受けた、教育レベルの高い若者がアントレプレナーとなり、地方から流れた農民工の存在が低廉で膨大な労働力を生み出し、これが、中国を「世界の工場」に押し上げたのです。資本の出し手は巨大な国家であり、国家資本によって回転運動する「中華流の資本主義」となったのです。

中国における市場資本主義は、このような成り立ちからして、欧米を本家とする自由市場資本主義と全く異質のものです。
中国の経済システムは、あくまで共産党一党支配を前提とした上で、市場メカニズムを導入するという「人治主義的経済システム」であり、その枠内においてのみ資本の論理や市場メカニズムが成立し、これが人々に労働意欲と生産性の効率化をもたらし、経済を成長させるという仕組みです。しかし、もしそこにおいて、党の価値観や方向性に矛盾するものがある場合には、直ちに強制的に是正され、ときに排除されるのは、いうまでもないことです。

そして中国の驚異的な経済成長を目の当たりにした世界は中国に接近してその経済成長を自国の成長の果実として取り込もうとしました。世界は、争うように中国に進出し、中国を世界の製造業のサプライチェーンに組み込み、一方で中国の消費市場に参入しようとしたのです。

しかし、中国は、党の経済システムに整合する範囲においてのみ、市場主義を利用しますが、その成り立ちからして、決して自由市場資本主義の経済システムに歩み寄ろうとするものでないことは明らかです。アメリカの「関与政策」(エンゲージメント政策)は失敗しました。

「中国異質論」のいうような「中国の資本主義や市場主義はわれわれのとは違う、フェアでない」と主張は、中国では通りません。逆に、「欧米の自由市場資本主義だけが、唯一無二の資本主義・市場主義と決まったわけではない」と反論されるのです。「市場主義」という「ことば」の持つ意味が、ハナから違っているのです。

例えば「法の支配」。
第2次世界大戦下でハイエクが唱えた「法の支配」は、自由主義・民主主義国家において、専制君主や独裁者の専横を防ぐために主張され、いまもたびたび用いられる概念ですが、一党支配のための「法の支配」を前提とする中国では、同じ「法の支配」という「ことば」を使っても、意味内容が全く違っていて、議論がかみ合いません。中国からすれば、自国の社会制度においてうまく機能しているシステムが、欧米の尺度からみて「異質だ」と注文を付けられても、不当で理解不能な「内政干渉」にしか聞こえないのです。

対中政策において、この「異質性」を理由に「デカップリング」(経済的分断)を唱える極論も聞こえますが、そもそも返り血を浴びずに中国を世界経済の輪環から切り離すことは不可能なので、せいぜい自国や自社のリスクの低減を図る「デリスキング」(リスクの軽減)することが現実的な対応なのでしょう。

戦中戦後のエコノミストの高橋亀吉氏は、ケインズやマルクスを念頭に「経済社会は、①無意識的調節から、恣意的調節へ ②より計画的な調節へ ③社会的な意識的調節へ、と科学的統制のなし得る社会主義的調節が漸次有力となるであろう」と論じました。
こうした意見は古い唯物史観的考えとして、②から③への移行は失敗し、葬り去られたかと思われましたが、いまは、逆に①の自由市場資本主義の正当性が疑われ始めています。
またハイエクは「集権主義と自由主義・市場主義とは両立しない」といいましたが、自由の制限された集権主義と市場主義が本当に両立しないかどうかは、中国の経済発展を見る限り、わからない、といわざるを得ないのです。

(話を、「宝山製鉄」に戻しましょう)

中国にとっては、日本からの技術の移転やODAによる資金援助はまさに、自らの利益に資する範囲で利用してきたわけで、それは「宝山鋼鉄」についても同じことなのです。かつて、日本の財界人が、近隣諸国が経済成長すれば国際環境はより平和になると考え、会社の利益より世界平和を優先させたとしても、その同じ考え方を強大になった相手国に期待するのは、あまりに日本的に過ぎるのです。

「ジャパノミクス」の根っこにある日本の「商家的」経営倫理からすれば、その後の中国の製鉄会社のビヘイビアは納得しがたいものがあるかもしれませんが、日本の経済社会に根付いた「相身互い」的な社会的信頼の仕組みは日本にしか通用しないのであって、中国に限らずあまねく世界に期待する方に無理があります。

そもそも、J.S.ミル「自由論」の説く自由主義の公理は、「多様性」を受容し、他の自由を侵害しない範囲において、自らが自由に振る舞うことが出来る、というところにあります。
自由主義者は、相手と付き合いたければ、たとえそれが不愉快な存在であったとしても、現に存在しているものとして認めなくてはなりません。付き合う以上、お互い勝手なことをすることは許されないが、互に自らと違うことを受け入れ、寛容で協調的であるべきだという考え方は守らなければなりません。
しかし、ミルによれば、「自由の原理」は、自由を放棄する自由を認めない、自由の譲渡を認める自由も認めないと言っているのですから、当然、自由主義者は、付き合う相手と付き合い方を自由に選択すればよいのです。

日本製鉄は自由主義国の私企業として、淡々とそういう選択をしたのです。

そういう意味で、太平洋の向こう側で、同じ会社に対し、自由の譲渡を求める、自分勝手で「不寛容」な自由主義者ほど、矛盾に満ちた面妖なものはないといえるでしょう。



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