
「ジャパノミクス」って、なんどいや? (5)
第5講 「レーガノミクス」と「サッチャリズム」
1981年、ロナルド・ウィルソン・レーガンが、ベトナム戦争疲弊した疲弊したアメリカを立て直す、「強いアメリカ」の復活を標榜して第40代大統領として登場しました。もちろん、アメリカ市民に「強いアメリカ」の復活をアピールするためには、誰に対して強いのか?つまり「仮想敵国」の存在が必要です。一つには、軍事的・政治的にはソヴィエト社会主義共和国連邦であり、今ひとつは、経済面における「敵対的貿易相手国」としての日本が、それです。日本は安全保障上は同盟国ですが、経済的にはアメリカに対して敵対的な国家と見なされていました。
レーガン大統領就任当時のアメリカ経済は、深刻なスタグフレーション(景気が後退していく中でインフレーションが同時進行する現象)に苦しんでいました。そこで、レーガン大統領は、就任早々に停滞するアメリカ経済を立て直すために、
⑴ 政府支出の抑制
⑵ 大幅減税
⑶ 規制緩和(ディレギュレーション)
⑷ 通貨供給を一定とすること
を柱とする新しい経済政策を発表します。これまでの高福祉社会の実現とケインズの総需要管理政策を否定するこの政策は、後に「レーガノミクス」と名付けられることになります。
この「レーガノミクス」には二つの骨格がありました。
一つは、この経済的苦境は、労働生産性や労働意欲の低下、設備投資の減退などの「供給サイド」に問題があってもたらされたものであるから、ケインズ経済学が教える裁量的な財政支出よりも、減税による設備投資の喚起こそが有効であると主張する「サプライサイド経済学」です。
もう一つは、シカゴ学派のミルトン・フリードマン氏の主唱する「新自由主義」・「市場主義」・「小さな政府」による経済運営と通貨供給増加量一定を原則とする「マネタリズム」といわれる金融政策です。
また、その少し前にイギリスに保守党のマーガレット・サッチャー首相が登場しています。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉国家の実現を目指した労働党政権下で「英国病」と呼ばれるまで疲弊していたイギリス経済を再建するために、サッチャー首相は新自由主義的経済政策を強いリーダーシップの下、強力に推し進めていきました。具体的には、公共的分野にも市場原理を導入して、鉄道をはじめとする国営インフラ企業の徹底した民営化を進め、金融面では、規制緩和と自由化を柱とする「金融ビッグバン」を断行し、こちらは「サッチャリズム」といわれました。
結論から言えば、アメリカは「双子の赤字」といわれる貿易赤字と財政赤字を抱えることとなり、イギリスにおいても「シティ」つまり金融だけは、強くなったものの肝心の製造業が衰退し、貧富の格差の拡大を招いたり、インフラ投資が行き渡らなかったりして、両国とも経済政策としては、必ずしも成功したとはいえないものでした。
戦後1960年代までのアメリカ経済の繁栄は、そもそも総需要管理を政府の役割として重視したケインズ政策と、これによって生まれた分厚く豊かな中流層によってもたらされたのですが、「レーガノミクス」によって経済活動を自由競争に委ねて以降、超富裕層と庶民との間の所得格差がどんどん拡大、貧困率が上昇し、逆に中流層が薄くなって、現代のアメリカ社会は分断し安定性が損なわれているといわれています。
しかし、それでもこの1980年代の「レーガノミクス」と「サッチャリズム」の華々しい登場を契機として、国際経済の世界では「自由市場資本主義」が教義としての正当性を確立し、普遍的価値としての「グローバリズム」を進めるべきであるという大きな潮流が定着しました。
その背景に、ソヴィエト社会主義共和国連邦の崩壊と冷戦の終結、中華人民共和国における鄧小平の市場主義導入の試みといった大きな国際政治上の流れがあり、世界はやがて民主主義・自由主義へと収斂していくだろう(フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」1989年)という思想的な流れもありました。
かくして経済面では、「グローバリズム」の下に集う国や経済主体は、すべからく「自由市場資本主義」の教義に従って経済活動をすべきであるというような考え方が有力となり、それに沿って国際間の通商交渉や経済上のルールの取り決めが整えられていくようになりました。
例えば、実際の日米通商交渉では、「グローバリズム」「自由市場資本主義」の教義に従って、専ら日本に対しては貿易障壁を下げることを求めながら、自国アメリカにおいては、一部の輸入産品に対し懲罰的高率関税や、輸入数量制限といった露骨な保護貿易主義的な政策をとるような、面妖なことが行われました。一見矛盾するこのような対日政策の論拠となったのは「相互主義」(本来は、相手国の自国に対する待遇と同様の待遇を相手国に対して付与するという前向きな考え方)の逆用です。
「自由市場主義の国」アメリカからみれば、日本の市場に参入しづらいのは、日本経済が非自由主義的でアンフェアな構造になっているからである、従って、「公平性」の見地から、アメリカがフェアだと満足する水準に到達するまで、相手国の日本が経済構造の変革にも努力すべきであり、それまでは、強権的に自国の市場を閉ざしたり、懲罰的な関税政策を用いてもよい、という理屈なのです。この考え方で法制化されたのが、1988年の「包括貿易・競争力強化法」で、「スーパー301条」で有名な法案です。「グローバリズム」「自由市場資本主義」の教義の下では、その実現のためには「目には目、歯には歯」が許されるということです。またこうすることが、政治的にアメリカ市民のコンセンサスがもっとも得やすいという実利的な政策でもありました。
しかし、国際経済学者のキンドルバーガー氏が指摘したように、「自由主義貿易が自国に利益をもたらすことが明白な場合においては、その正当性を相手国なり世界に向けて主張するが、政治的経済的利害対立が生じた場合は、理性よりもナショナリズムといった感情論が政治と政策を動かし、保護主義的貿易政策が臆面もなく選択される」ようなことが行なわれることは歴史が証明しています。まさに、当時の日米通商交渉でみられたことであり、遡っては、17世紀の英蘭戦争、19世紀のアヘン戦争や20世紀の大恐慌時のブロック経済、現代21世紀の米中経済摩擦と幾度となく繰り返されてきたことなのです。
もう一つ、自由市場資本主義とグローバリズムの流れを、一層加速させる事象が20世紀の末に起こります。IT革命です。自由市場資本主義の教義が金融工学やICTと結びついて、金融テクノロジーに革命の引き起こしたのです。金融取引のアルゴリズムの高度化と超高速化は、アメリカを中心としたネットバブルの急速な膨張とその崩壊(1998年の「LTCM破綻事件」など)、今世紀初頭の「リーマン・ショック」(2008年)という深刻な問題を起しつつも、アメリカ経済に活況をもたらし、グローバル化の流れに沿ってますます金融技術は高度化し、複雑化してきました。いまや金融技術はあらゆるものを金融商品化し、しかも実物経済に分かちがたく紐付けられているために、金融市場の与える動揺の影響は計り知れないほど大きく、それにもかかわらず、一般の人々には知り得ない巨大なブラックボックスとなっています。
こういった、自由市場資本主義やグローバリズムの「先進的」な潮流に晒されて、当時の日本のリーダーであった人びとの目には「ジャパノミクス」が色褪せて見えたに違いありません。
次回は、日本における「自由市場資本主義」と「構造改革論」について触れていきたいと思います。