「ジャパノミクス」って、なんどいや?(32)~「茹でガエル」経済論と「リッチマン・プアウーマン」(下)
「茹でガエル」経済論、からの続き。
(あの20年間何もやらなかったのか)
2020年にコロナ感染症による世界的パンデミックが広がり、その広がりを防止するために不可欠な個人情報を把握するシステムやリモートで通信するシステム、キャッシレス取引が日本では他国に比べ著しく遅れていることが、明らかになりました。
その時、ふと頭をよぎったのは、2012年に放映されたフジテレビ系「月9」ドラマの「リッチマン・プアウーマン」でした。
そこで、明らかにスティーブ・ジョブスを模した天才クリエーターが、個人情報管理システム「パーソナルファイル」を総務省に売り込むエピソードがあります。
その頃、折しも2012年2月に「社会保障・税に関わる番号制度に関する検討会」が設置され、マイナンバーカードの導入が検討され、2013年には、マイナンバー関連4法が公布されます。
10年も前のドラマ化されるほど、個人データ管理の重要性が既に認識されていて、「いずれこんな世界がやってくる」と思っていたはずです。その認識は、世界に先んじていたともいえます。
しかし、人びとの間で当時から「やるべきこと」がはっきりわかっていた、にもかかわらず、なにもやらないでいた、そこに、パンデミックやウクライナ戦争が起こり、人びとは当惑したのです。
さらに、2024年には巨大な災害が起こった時の人的物的被害の規模を早急に掴む能力についても、依然として日本が台湾に立ち後れている実態が話題になりました。
まさに「茹でガエル」経済論の指摘するように、危機感を共有できなかったために、やるべきことーグローバル化、デジタル(AI)化、ソーシャル化の波に乗りきれなかったということです。
では、「あの20年間」に、たとえばどのようなことが「やらなかった」といえるでしょうか。
①「日本の企業の永続性を重んじる経済システムを守りながら、世界的な産業構造の変化に対応する国内の産業力の育成を怠った」
②「首都一極集中ではなく、リソースを多核化し、地方経済の育成をなおざりにした」
③「分厚く形成された中間層の育てることをせず、格差社会を生み出した」
④「安全保障を他国に国に依存しつつ、生産拠点を海外に移し、国内の中小製造業の保護育成を行わなかった」
⑤「社内や公的機関といった組織内で優秀なイノベーターを育てる環境を作れなかった」
⑥「これらの基盤となる教育に力を入れてこなかったこと、とりわけ大学教育の東京への集中と地方公立大学の地盤沈下による教育費の高コスト化と若者の大都市集中」
などです。
なぜこうなったかについて、もっと掘り下げて類型化すると、面白いことに気付きます。
①は「ジャパノミクス」への信奉が世界の産業変化について行けず国内の産業育成の妨げになった、というこれまで述べた構造改革論者と同じ考え方です。
しかし、②、③、④、⑥は明らかに自由市場資本主義的政策の産物であるといえるでしょう。これらは、おそらく「ジャパノミクス」的な経営理念からは起きにくい事象です。自由市場主義の教義は、リソースの集中と利潤の追求、その結果としての富の偏在を最大限許容します。さらに利潤の追求が、生産拠点の海外移転を促進したのです。
②の地方経済については、意外に思われるかもしれませんが、「ジャパノミクス」の産業育成のベクトルは、明らかに「地方」を指向していました。例えば、「テクノポリス(高度技術集積都市)構想」というのがあります。これは、地方での高度技術産業の立地を図るべく1983年に政策化されたもので、当時26拠点が指定されました。(その後法廃止)
③の格差については、分厚い中間層「一億総中流社会」は「ジャパノミクス」の時代に実現していました。しかし、1990年の当初所得ジニ係数は0.43程度でしたが、自由市場主義が根付いてきた2005年には、「格差社会」の判断基準である0.5を超え、2017年には0.56まで上昇、世界的に見ても日本は所得格差がかなり大きい社会となっています。
⑤は、日本には「ジャパノミクス」の下でも、活発にイノベーターが育ってきた事実があるので、これは制度や理念の問題ではなく、現実にバブル後の経済的苦境に直面した企業が「選択と集中」の名の下で切り捨てざるを得なかったり、行財政改革の名の下で公的機関への予算を削られたり、要するに育てる「ゆとり」がなかったことに起因すると考えるべきでしょう。
④はこれまで述べてきたので重複は避けますが、製造原価を引き下げるために経済安全保障的な見地よりも、個々の企業の自由市場主義に基づく判断を優先した結果に過ぎません。
⑥の教育についても、筑波大学(1973年大学設置)をはじめ、長岡技術科学大学(1976年)、豊橋科学技術大学(1976年)や奈良と北陸先端科学技術大学院大学(1991年)など地方での新設大学の設立や学部増設も盛んに行われました。しかしその後2003年の国立大学の法人化により、市場原理が導入されることで、相対的に地方大学の研究機能が低下し、研究格差が広がったといわれています。しかも、近年東京大学が公表したように、学費そのものも引き上げる方向で、ますます家計費に占める教育費の比重が重くなり、さらに若年層の教育格差や将来の生涯所得格差を生み出すようになっています。
このようにみていきますと、畢竟「あの20年」の日本の経済の停滞は、「ジャパノミクス」の崩壊と自由市場資本主義への転換の過程で起こった惨事であり、リーダーたちが「何もやらなかった」のではなく、自由市場資本主義の教義に縛られて「何もやれなかった」ことの帰結ではないか、と考える方が適切な理解なのです。
ところで、ドラマの「リッチマン・プアウーマン」では、個人情報を一元管理する情報管理システム「パーソナル・ファイル」は挫折します。原因は、個人情報の流出事件でした。
その後の10年以上も前に着手したマイナンバー制度の紆余曲折は周知の通りです。
現実的にも、この個人情報の取り扱いの問題は、未だ根本的に解決を見ていないようです。
日本人は、前講で触れましたように、集団の内と外を区別するタテ型の「小集団」を重んじるところがありますから、「小集団」の外への情報漏出には神経質なところがあります。中国のような中央集権的な情報管理を嫌い、かといって、自由市場的なオープンな情報管理にも強い不信感を、日本人は持ち続けているのです。
しかし、将来に向けて日本人が「やるべきこと」は、はっきりしているのです。
次回は、バックキャスト型議論の限界について。