「ジャパノミクス」って、なんどいや? (7)
第7講 自由市場資本主義の「双子の兄弟」~日米構造協議と構造改革
1980年代から、様々に形を変えて20年以上も間断なく行われた日米通商交渉の推移をクロニクル的に辿っていけば、アメリカの対日交渉の戦略性が透けて見えます。当時アメリカは、自由主義的市場主義の旗印のもと、日本に対して個別産品の関税の引き下げなど貿易の自由化を求める一方で、特許権侵害やダンピング認定によって、日本企業によるアメリカの基幹分野、将来分野にかかわる対米輸出に制限をかけるなどしていましたが、やがて対日赤字の縮小が進まないことの原因は、日本の経済「構造」にあるとして、その是正、具体的には、政治主導による「ディレギュレーション」(規制緩和)と実物市場・金融市場の急速な自由化を強硬に迫るようになります。「日米構造協議」といわれたこのような通商交渉を長く続けていくことで、「ジャパノミクス」日本型経済システムはその強みを、徐々に削がれていったのです。やや穿ちすぎかもしれませんが、この時期、日米通商交渉とほぼ重なるように起こったバブル経済の崩壊と金融危機を契機として「ジャパノミクス」が融解し、「失われた20年」という日本経済史上空前の災禍に見舞われたという事実関係は否定することはできません。
そして、この長期低迷期を脱した2012年以降、今に至るも、その後遺症として「少子高齢化」「巨額な公的債務」「競争力や生産性の低迷」といった資本形成・労働力確保・技術革新といった重要な経済要素に関わる深刻な問題に私たちは直面しているのです。
実体験として記憶にとどめている人は少なくなりましたが、半導体製造分野で、日本がより低廉で高性能な製品の開発に成功しつづけ、世界の市場を席巻していた時代がありました。しかしながら、当時大学には電子工学を目指す優秀な学生が集まり、多くの研究者がこの将来の基幹技術の確立に成功していたにもかかわらず、結果として、日本はその競争優位性を維持することに失敗してしまったのです。
その原因として、日米半導体協議によって課せられた輸入価格と数量の制限により、直接的には経済的な妙味が得られなくなった、つまり儲けられなくなったということ、それによって、日本国内での技術開発意欲を削がれたということにあったことが挙げられます。経済学の教えるところでは、企業は、儲からないところには、おカネやヒトや技術といったリソースを投じるようなことはしません。そのことで実際に「アニマルスピリッツ」を持つ優秀な技術者が国外に流出し、技術流出につながったといわれています。
その帰結は、今に見ることが出来ます。日米通商交渉において、制限を受けた分野の隙間を埋めるように、半導体・エレクトロニクスのほかにも、鉄鋼や造船、自動車産業において、この時期の近隣新興国の発展はすさまじく、多くの分野の製造業がキャッチアップされ、数量的にはもちろんのこと、技術面においても、もはや太刀打ちできない状況となってしまっています。
また、20世紀末に日本から半導体産業の覇権を取り戻したアメリカでは、この時期、インターネット技術や金融技術におけるダイナミックなイノベーションが、シリコンバレーを中心に巻き起こりましたが、これが日本に、大きなうねりとなって波及することはありませんでした。
当時アメリカや新興国において、半導体やインターネット、通信、液晶技術などの近未来の基幹的技術の開発と応用が、政策的に手厚く保護され、戦略的に育成されていたにも拘わらず、こと日本に関しては拱手傍観の体で、かつて通産省(MITI)が果たしたような戦略的な育成政策が採られるようなことはなく、むしろ、自由市場資本主義の優等生たらんとして、政府が個別の産業政策にコミットすることを憚っていたように思われてなりません。
一方、アメリカとの通商交渉のさなかに起こった1990年のバブル経済の崩壊は、日本経済に壊滅的打撃を与えるとともに、かねて内在していた経済社会における歪みをも露呈させることとなりました。
1992年に住専問題や佐川急便事件の処理を巡って自民党政権が倒れ、細川連立内閣が誕生してから後は、政局は流動化しいわば「司令塔のない」状況になります。1990年代半ばには、阪神淡路大震災やオウム真理教事件など社会を震撼させる事件が相次いで起こる中で、企業トップが相次いで何者かに襲われて殺害されたり、政財界や金融界の不祥事が多発し、多くの大企業や金融機関が破綻しました。
こうした20世紀末の社会的不安の時期に会社の倒産やリストラ、手取り給料の減少、資産の下落やローンの重圧によって、金銭的にも窮迫した人々の中に、これまでの「ジャパノミクス」は信用できないといった不信感が兆し始めます。そして、この「信頼感の喪失」こそが、その後の日本経済にとって致命的な意味を持っていたのです。
「ジャパノミクス」というのは、経済理論でも経済政策でもなく、経済構造そのもののことを指しています。これは、歴史的に日本の経済社会を成り立たせてきた暗黙の社会的コンセンサスに根ざした固有のもので、国、企業、国民など経済主体間の「相互信頼」によって堅く結ばれた土着的な経済システムでありました。それだけに、暗黙の相互信頼が損なわれることで、あれほど堅牢に見えた「ジャパノミクス」という日本型経営システムは、あっというまに融解し始めることになったのです。
まず、「ジャパノミクス」の下部構造としての金融システムは、言うまでもなく「信用」で成り立っています。企業への「信用」や銀行への「信頼」が揺らげば、当然実体経済は危地に陥ります。しかも、この「信用」「信頼」は一旦揺らいでしまえば、これを復旧させることは容易なことではありません。人びとは「疑心暗鬼」に支配され、そこでは古典派経済学の説くように、経済合理性だけで人びとの経済行動を導くことは不可能です。ですから、この金融危機は、「信用」が回復したことを、人びとが確信するまで絶対に収束しないのです。現に1990年代後半の金融危機は、小泉純一郎内閣の竹中平蔵氏が指揮した2002年の「金融再生プログラム」の荒療治によって主要銀行の不良債権を徹底的に潰し(実際には貸倒引当を立てるために自己資本を増強させること)て、銀行に対する「信用」を回復させることで、ようやく収束に向かったのです。
一方、上部構造である「ジャパノミクス」という日本型経済システムは、健全な財政、貿易収支、経済成長を前提とする総需要管理政策を基本としていました。しかしバブル崩壊のもたらした逆資産効果は強烈で、一気に実物経済を収縮させ、小出しの財政出動では、到底景気を浮揚させることが出来なくなりました。そこで登場してきた処方箋が、アメリカやイギリスですでに実践されてきた「自由市場資本主義」的経済政策なのです。具体的には国有から民間への経済主体の移管、政府介入の抑制、内外の競争環境の整備、ディレギュレーション(規制緩和)といった、いわば「上からの市場化」政策で、これらを一括りにして「構造改革」としたのです。この「構造改革」は、明らかに「日米構造協議」と双子の兄弟のような関係にあります。
そもそも当初から「構造改革」の「構造」とは何を意味し、そこをどうして改革しなければならないのかといった議論があまりなされていなかったように思います。それでも「構造改革」を語れば斬新でもっともらしく、「ジャパノミクス」の有効性やケインズ政策を語れば古くさく、その論者は「守旧派」のレッテルを張られかねない社会的空気が醸成されるようになりました。
「構造改革」とは、文字通り「既存の」構造の否定であり、それを支えてきた「既存の」経済システム、経営システムの否定、さらに広くは政権や政治体制の否定にもつながり、現状に不満を持つ人々にとって受け入れられやすい時代環境が後押ししていた面もあります。ですから、本来、構造上の問題があったとすれば、これを適切なものに改善しようとするべきなのですが、当時はこれを二元論に落とし込んで、とりあえず否定する、すなわち守旧派を「ぶっ壊す」ことから議論が始まったのです。
そこで、次回は、礼賛から数年を経ずして巻き起こった強烈な「ジャパノミクス」批判と「構造改革」論について、当時の議論を振り返ってみたいと思います。