「ジャパノミクス」ってなんどいや?(29)~コーポレートガバナンスのあれこれ
(ドイツのコーポレートガバナンス改革)
近年、企業の会計不正や品質不正、あるいはハラスメントなどコンプライアンス上の不適切な事件が起こるたびに、問題視されるのはその企業のコーポレートガバナンスです。
アメリカにおいて、2001年のエンロン事件や2002年のワールドコム事件のような大規模な会計不正が相次いで明らかとなったことで世界経済は大きく動揺しました。これを契機に、コーポレートガバナンス(企業統治)における透明性と適切性を保証するためのガイドラインが必要であることが再認識されて、制定されたのがコーポレートガバナンスコード(CGコード)です。
簡単に言えば、CGコードとは、ある経済社会において、会社が経済活動を行う上で遵守しなければならない憲法のようなものです。自由経済だからといって、好き勝手に情報を統制し、何をやっても良いというのでは健全な自由市場経済社会を築くことはできません。ですから、市場で経済活動を行う企業が守らなければならないルールや規範を定める必要があるということは、当然のことでそこに異論を差し挟む余地はありません。
CGコードは、市場参加者が遵守しているはずの道徳律という暗黙知を「見える化」することで、守らない参加者を排除することを目的としているともいえます。
こうした流れを受けて、日本でも、安倍政権下の「日本再興戦略」の一環として2015年に欧米のCGコードを下敷きに制定され、全上場企業に適用されました。日本のコーポレートガバナンスコードでは、「コーポレートガバナンス」を「会社が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意志決定を行うための仕組み」であるというふうに定義しています。
こうした「コーポレートガバナンス」の考え方は、やがて自由市場資本主義の下で国境をまたいで公正公平な経済取引を行うあらゆる上場企業が従うべき規範・コードを原則化するべきであるとする方向に拡大します。
しかしながら、どの国にもその歴史や文化・宗教を背景とした固有の憲法があるように、経済的社会的規範についても、それぞれ歴史や文化を下敷きにした土着性や個性があります。従って、万国共通の唯一無二のCGコードを定めることは、おそらく不可能なことだと考える方が自然です。
そういった視点から、一つの例として、ドイツのコーポレートガバナンス改革の歩みをみてみます。
同じ「欧米流」であっても、ドイツの企業統治のあり方は、アングロサクソン型と大きく異なっています。
例えば、ドイツでは、経済活動の自由度や税制の点から同族、創業者経営が選好される傾向が強く、個人企業や有限会社が多いために、歴史的に政府や銀行や産業金融の役割が大きいのです。従って、大企業においてすら株式保有の分散が進んでおらず、企業間の相互持合い比率が高く、株式保有構造は、日本のそれと極めて似ていました。(もっとも、日本の株式持ち合いと異なるのは、日本が異業種間にまたがる水平的な相互持ち合いであるのに対し、ドイツでは垂直保有(親子持ち合い)が多く、戦前の日本の財閥経済と似たところがるといえます。)
ドイツのコーポレートガバナンスは、戦後西ドイツのめざましい経済成長と強力な国際競争力、東ドイツとの統合、それに高い労働組合組織率を背景に形作られました。その特色は、次の四点に要約できます。
まず第一に、ドイツのコーポレートガバナンスは、政府やドイツ銀行など大銀行の企業への強大な影響力と、労働者代表が経営に参加する「労使共同決定」によって特徴付けられます。
つまり、大株主である政府と大銀行は企業と安定的な関係を結ぶ一方で、企業を所有していない労働者が、「ステークホルダー」としてそれら大株主と同権で、企業経営を監視し、かつ企業戦略をも決定する、という統治形態をとります。この「労使共同決定」によって、長期的な企業価値の追求と雇用の安定を図るというわけです。
その背景には、ドイツでは、企業というものは複数のステークホルダーのために利害多元的に統治されるべきであるという伝統的な企業観が根付いており、株主の利益のみを重視してはならないとする社会的コンセンサスがあります。
もちろん、株主を軽視しているわけではないですが、株主利益のための施策は、あくまで「企業の利益」や「共同決定」に反しない限りにおいて正当化されるべきである、という考え方に立っているのです。
第二に、経営者についての考え方です。
基本的には、経営者をして企業の支配者とみるものの、経営者の行動を監視し、規律を守らせるために、取締役会が経営者から独立して意思決定ができる状態を保持する建付になっています。
そして取締役会は、経営者が「追求すべき利益」と、経営者に「求められる利益(追及されるべき利益)」が相反しないかどうかを監視します。
ここで「追及されるべき利益」とは、「株主利益」だけではなく、「企業の利益」を意味します。
第三に、監査役制度です。
ドイツの株式会社では、取締役会の役割と権限を監査役会と執行役会 の二つの機関に分かち、人的にも監査役会構成員 と執行役会構成員 の兼任を禁じて、監査役会が執行役会を監督するという二層型取締役会が採用されています。
ドイツの監査役制度では、資本家側代表監査役がキャスティングボードを握りますが、監査役会は資本家側・労働者側それぞれが同数のメンバーで構成されます。
監査役は、経営者の監督者であり助言者として「企業の利益」のために機能し、かつ、ステークホルダー間の利害調整役の役割も担います。そして、経営にコミットしながら、「執行役会からの独立性」とともに「個々のステークホルダーからの独立性」も確保するという重い重責を負っています。
第四に、これまで出てきた「企業の利益」という概念です。
ドイツのコーポレートガバナンス改革は、ー「企業の利益」は様々なステークホルダー(経営者、社員、顧客、社会)への貢献によって得られる「社会的利益」の総和であるーという観念の下で行われてきました。実際、法解釈においても、ドイツでは「株主の利益」のために「企業の利益」を犠牲にすることは認められていません。
しかも、その「企業の利益」というのは、財務上の短期的利益のみを意味するのではなく、「企業の存続」や労働者の「労働環境」といった非財務的な要素を含む「持続的収益」(サステナビリティ)をも包摂しているのです。
こうしてみると、日本型経営システム「ジャパノミクス」は、「企業の利益」の概念、多元的なステークホルダーの重視、労使協調といった一種の「共同統治」、個人企業、中小企業が圧倒的に多い社会構造、強力な政府や銀行権力や企業間株式保有など、「ドイツ型」の方が「アングロサクソン型」より、はるかに企業統治を考える上での共通項が多いことに気付きます。
むろん、ドイツにおいても、市場のグローバル化やEU統合が進むことで、日本と同様に、イギリスやアメリカなどの自由市場資本主義国から「アングロサクソン型」のガバナンス改革への変更を求められています。
実際、日本が「構造改革」に邁進していた頃の2002年には、ドイツでもコーポレートガバナンス改革の一環として「ドイツ企業統治規範」(DC G K ) が策定され、その後、漸次改訂が施されています。また、銀行権力や産業企業間の株式保有比率も低下しています。
しかし、ドイツでは、改革を通じて「透明性の確保」は高めつつも、「株主利益」のための改革については、あくまで「企業の利益」(公益)の枠内でしか認めないという伝統的な企業統治の考え方は堅持されているのです。
このようにみてくると、コーポレートガバナンス改革において、ドイツのように、「アングロサクソン型」に偏りすぎず、日本の歴史や社会的文化的構造に適合した独自のCGコードを策定する道を探る手もあったのではないかと思えるのです。
(現代の「コーポレートガバナンス」の議論と「ジャパノミクス」)
その後、2017年に、「伊藤レポート」のアップデート版にあたる「人材版伊藤レポート2.0」が公開されます。
このレポートでは、ある会社がイノベーションを起こすなどして他社との間で競争優位を確保し続けるには、イノベーションの源泉となる人材を中心とした「無形資産投資」が重要であるとされます。
そこで、もし、その会社が人材投資など「無形資産投資」を怠り、イノベーションへの対応を十分に行っていないと判断した投資家は、その未投資部分を、将来のいずれかの段階で負担せざるを得ない「費用」としてカウントし、その相当分を企業の現在価値からディスカウントするであろう、と考えます。つまり、市場からペナルティを与えられるのです。
そうならないためには、会社が行おうとする「無形資産投資」が、将来の企業価値向上に資する適切なものであるという「ストーリー」を投資家に対し、積極的に語らなければなりません。そうした投資家との対話、これが「エンゲージメント」で、これを行うための指針として、レポートでは「価値協創ガイダンス」を提案しています。
具体的には、会社に企業価値を高める将来ビジョンがあって、これを実現するためのモデルを提示し、その計画の実現を通して会社の発展と永続性(サステナビリティ)を株主に約束するということです。
2022年には、さらに進んで「SX版伊藤レポート3.0」が公開されます。ここでは、気候変動やパンデミック、地政学リスク、人権問題などの課題解決に取組む企業経営の指針を提案しています。
SXとは、「社会のサステナビリティ」と「企業のサステナビリティ」を「同期化」させるための経営変革(トランスフォーメーション)をいい、「社会のサステナビリティ」と「企業のサステナビリティ」をともに実現するための会社と投資家との「エンゲージメント」の高度化の必要性を提言しています。
このように、伊藤レポートは、企業価値の向上を目指す企業のあり方について、「収益力の向上」→「人的投資を通じた会社の永続性の確保」→「会社と社会の永続性の共存」と、その議論を広げていますが、これは、会社が企業価値を高めるために意識しなければならないステークホルダーの重心が、株主→従業員→社会へと変遷していっていることにほかなりません。
いまや、企業価値とその価値の帰属先は、労働や資本にとどまらず、「社会」をも包摂しなければならなくなってきているというわけです。これは、つまるところ、かつての日本の伝統的企業観そのものです。
ところで、EUにおいては、SDGsを取り込んだ「非財務情報」を企業価値の判断をどう取り入れていくのかという議論が先行して進んでいます。
「非財務情報」とは、数量化されづらい経営情報、インフラなどの製造資本、特許・ノウハウなどの知的資本、従業員の能力・スキルなどの人的資本、社会貢献などの社会関係資本、天然資源に関する自然資本などのことで、これからの企業は、これらへ積極的にコミットすることで、社会における「レゾン・デートル」を自らが示していかなくてはならないということです。
そこには社員の働きがいや健康、暮らしと社会の安定、顧客やサプライヤーに提供する幸福感、満足感に関わる情報も含まれていて、経営理念としてはまっとうな議論です。
しかし問題は、それら「非財務情報」をある一定の基準で指標化して市場に開示しさえすれば、それをみた投資家の投資判断を通じて、つまり市場メカニズムの働きによって、自然淘汰が行なわれ、現代の地球温暖化、環境共生、循環型社会の実現等さまざまな社会的課題が解決されるだろうという、自由市場資本主義への揺るぎない信念が、厳然として存在しているということが見え隠れしています。
つまり、環境や社会、人間の生活にかかわる課題解決においても、あくまで投資家や株主がステークホルダーの中心に座り、株主の判断が企業経営を正していくという「株主資本主義」的図式は依然として変わってはいないのです。
しかし、市場メカニズムが、こういった社会倫理や経済倫理にかかわる部分において正しい方向への舵取りできるであろうかということについては、これまでの歴史を振り返って懐疑的に身構えるべきでしょう。
少し前の2019年米国の主要企業が名を連ねる財界ロビー団体である「ビジネスラウンドテーブル」が「企業の目的に関する声明」と題された書簡を発表しました。
この声明は、1980年代以降の経済社会を支配してきた「株主資本主義」の思想的根拠となってきたフリードマンの「企業の社会的責任は利益を極大化することである」あるいは「市場メカニズムに任せて、株主利益の極大化を目指せば社会が良くなる」という世界観を真っ向から否定しています。このとき、「企業が説明責任を負う相手は、顧客、従業員、サプライヤー、コミュニティ、株主であり、株主はその一つに過ぎない」という声明を打ち出したのです。
1980年代において、日本では「ジャパノミクス」が米国の「ステークホルダー資本主義」に対して優位性を持つと論じられてきたことは既に触れました。このときの「ステークホルダー」とは、イコール「株主」でした。
ところが、このビジネスラウンドテーブルで定義している「ステークホルダー資本主義」の「ステークホルダー」は顧客、従業員、サプライヤー、コミュニティ、株主の五者であると定義しています。
つまり、この点で、かつての「ジャパノミクス」における企業観と違わないのです。
繰り返しになりますが、「ジャパノミクス」では、従業員は長期的に企業価値を高める「バリュークリエーター(企業価値創造者)」と位置づけられ、「人財」として重視されていました。いまでいう「人的資本の充実」あるいは「人材の戦略的活用」にほかなりません。
そして、当時の日本企業は、ステークホルダーである顧客、従業員、サプライヤー、コミュニティ、株主とのつながりをより緊密化させるために、積極的に終身雇用や経済連鎖、系列、株の持合いという形で「共同体化」を進め「会社の利益」の極大化を目指しました。
ところが、1990年代になると、こうしてできた共同体が、自由市場資本主義からみて、自由な経済活動を侵す阻害要因であると批判的に見る考え方が優勢となりました。
例えば、堺屋太一氏は、この組織の「共同体化」が、低成長下の日本経済では、もはや機能しないと主張しましたが、実際に起こったこととして、共同体が解体されたために「株主利益」への一元化が進み、それにによってもたらされた弊害の方がはるかに甚大だったのです。
今や、企業統治の考え方は、このように自由市場資本主義やグローバリズム市場主義から、多元化へと移り変わりつつあるように思われますが、これは、まさに世界と日本自らが30年近く前に決別したはずの「ジャパノミクス」に、再び近づいてきているという風にも見えなくはないのです。
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