「ジャパノミクス」って、コレでしょ? 「ジャパノミクス」って、なんどいや?(18)
猪木武徳氏は、「経済社会の学び方」(中公新書 202125日25日)の「因果推論との向かい合い方」のなかで、社会問題を考える上で事実と理論の関係において陥りやすい「プロクルーステースの寝台」(自らの価値観に事実を合わせる喩え)の陥穽に陥ることは避けなければならないと戒めています。
ですので、1980年代と「失われた20年」の間に起こった経済上の「事実」と、当時の人びとが「事実として信じたこと(信念や理論)」についての因果推論が、その陥穽に落ち込んでいないか、考えてみたいと思います。
さらに、現代に生きる私たち自身が、その時代の経済社会を考える場合、ともすれば現代の価値観や尺度に傾いて判断しがちであることも、あらかじめ承知していないといけません。
そして、これが意外に難しいのです。
「過ぎたことをふりかえるとき、人間は神となりうる。こうなることを私だけが知っていたのだ、と当時の渦中の当事者がいうほど、愚劣なことはない」(司馬遼太郎「坂の上の雲」文藝春秋)ーと、こうなってしまうのです。
まず、1980年代に生きた人びとは、「経済大国・日本」という「事実」を、「ジャパノミクス」によってもたらされたという「信念」と結びつけて理解していました。
同様に、1990年以降の「失われた20年」に生きた同じ人びとは、日本経済の停滞という「事実」を、「ジャパノミクス」によってもたらされたという「信念」と紐付けていたのです。
つまり、この時代の日本経済の浮沈の原因を、その時代に生きた人びとは、どちらも「ジャパノミクス」にある、と因果推論していました。
よく考えれば、これはとても面妖なことです。
「失われた20年」は、「ジャパノミクス」が壊れたことによってもたらされた、というのであれば、まだ因果は繋がりそうです。
でも、そういった議論にはなっていないのです。
では、そもそも「ジャパノミクス」日本型経済システムとはどういう性格のものだったのでしょうか。
「レーガノミクス」や「サッチャリズム」あるいは、「アベノミクス」などは、その背景に新自由主義的な経済理論が明確にあって、その理論による経済政策のことをいいます。
しかし、「ジャパノミクス」には、経済政策を導き出すような明確な経済理論がなく、土着性の強い日本的「信念」に基づいて運営されている経済主体の集合体を「国ぐるみ」で支える経済システムのことだと理解した方がしっくりきます。
カントの根本原理を借りるならば、「アベノミクス」が「Sollen」(あるべきこと、なすべきこと)を指し示すのに対し、「ジャパノミクス」は「Sein」(実在、存在しあること)を説明しているのです。つまり「アベノミクス」は自由市場資本主義に基づく政策提言であるのに対し、「ジャパノミクス」は、共通する暗黙知や理念で経営される企業(「集団」)で構成された日本型経済システムを「後付け的に」説明しているに過ぎず、具体的な「ジャパノミクス的」政策というようなものは存在していません。
まとめてみます。
これまで述べてきたことを踏まえていうと「ジャパンノミクス」というものは、経済主体間の強固な「信頼関係」に依拠して、次の4つの特色を持っていたと考えています。
まず第一に、「会社の所有者は、会社である」
当時の上場企業の株式の多くは、他の法人や銀行・保険会社などの金融機関によって所有されており、総会屋や仕手筋といった「特殊株主」を除けば、今日の(投資家の利益の代弁者として議決権を行使するような)「物言う株主」のような存在は、ほとんど市場にはいませんでした。
このような株式の「法人所有」は、戦前の財閥が互助的な関係で取り結んだ「相互持合い」を起源にしています。
それが、戦後になって財閥が解体され、復興需要で資金不足が慢性化すると、これに対応するため株式市場が整備されるようになり、市場の民主化が進められてきました。尤も、資本多数決や株式売買自由をタテマエはとりつつも、「相互持ち合い」は維持されていました。
このような「法人所有」は、相互の「信頼の証」でもあり、特殊株主などによる企業経営への介入を阻止する防波堤のような役割を果たすことになりました。
また、株式の流動性を最低限にとどめ、株主に対して株価の安定を約束する一方で配当を低くして社外流出を抑え、その分、設備投資や内部留保に振り向けることを可能にしました。
さらに、「法人所有」と「内部留保」は、銀行や取引先、顧客における会社への信頼を高め、ひいては経営者の地位の安定にも資するものでした。
かくして日本の会社は、この「法人所有」を土台にして、企業集団、企業系列、重層下請といったサプライチェーンやバリューチェーンを構築してきたのです。
経営と資本(株主)の関係について、日本人がどう考えてきたのかということについては、古い文献ですが、民間エコノミストの草分け的存在であった高橋亀吉氏(1891-1977)の「経済学の実際知識」(講談社学術文庫 1993)を読みますとよくわかります。
氏によると、資本家(株主)の原初的な役割は、①生産の種類と数量を決定する、②投機的危険を労働者に代わり負う、③資本と労働の結合を図る、④資本を供給する、を根本義としています。
しかし、現代企業では、資本家(株主)は、①と③を負わず、②を回避するために社債制度と銀行制度に頼り、寝ていて資本家(株主)になれる。今や単に資本家(株主)は資本の供給と投機の分担のみを受け持ち、最も困難にして面倒な事業の運営という役割を企業家(経営者)に委ねたー というのです。
今日の(「エージェンシー理論」の下で株主のために経営者を監督する)コーポレートガバナンスの観点からすれば、とんでもない暴論ということになりますが、こういった企業観は当時において一般的なもので、「ジャパノミクス」の源流となる考え方なのです。
第二に、「社員は、集団のために働く「バリュークリエーター」である」
「ジャパノミクス」では、企業の経営の目的は、目先の「利潤の極大化」ではなく「企業の永続性」に置かれ、永続性を保証するのは経営者・従業員・顧客との間の信頼関係にあるとされています。
戦後は、家父長を擁するような大企業は少なくなりましたが、一方で多くの優れた「創業者」や「番頭」を輩出しました。それらの会社では、カリスマ経営者の下で、社員も「企業の価値」そのものを創造するバリュークリエイターと位置づけられ、「家族主義的経営」とその根幹を支える「年功序列型終身雇用」が確立されました。
社員教育において基本となる人事体系や年次別研修制度というものはどの会社にもありますが、「ジャパノミクス」で最も重視されたのが、「小集団」やOJTの役割です。
一般に、会社という「大集団」の内部では、上司・部下、先輩・後輩・同僚で形成される「小集団」というクラスターが「入れ子細工」的に構築されています。この関係性を使って「小集団」のリーダーは、社員の能力とモチベーションを適度に制御しながら、集団利益の極大化、企業価値の創造を目指したのです。
それゆえ、会社は、その内部構造である部署の目標設定に工夫を凝らして、部署同士を競わせ、あるいは協働させます。
つまり、目標達成のための競争は、社員同士でなされるのではなく、一人一人の社員が属する「小集団」(例えば部署や課などのグループ)の間で行われます。ですので、社員は、会社(大集団)というよりも部署(小集団)への帰属意識の方が強くなり、その承認欲求は、部署の目標達成を通じた会社(大集団)の目標達成によって充たされます。
大企業になればなるほど、大集団ー中集団ー小集団・・・という風にこうしたクラスターや「入れ子細工」構造の規模は大きくなりますが、総じて、大小にかかわらず日本企業はこうした基本構造を持っていたように思われます。
こういったシステムが機能したのは、抜け駆けを潔しとせず組織に尽くすという日本人が土着的に持っている心性が残っていたから、といえます。
例えば、年功序列型終身雇用という制度は、こうした日本人の心性をうまく利用して、「会社の成功は自分の成功だ」と社員に思わせ、社員と会社を利益共同体とするのを可能にする一つの仕掛けです。
有能な社員は、「小集団」のリーダーから「大集団」のリーダーへの階段を駆け上がり、やがて日本の経済社会を動かすような立場にたつことを目指すという信念がインセンティブとなって、自らの地位と権限の向上を求めて懸命に働いて、集団を活性化させます。
また、人間関係を重視する集団主義の持つ共同体意識によって、社員の定着率が高く、従って技術やスキルの漏出も少なく、現場発の連続するイノベーションも生まれやすくなります。
それのみならず、集団の中に一定数存在する生産性の低い社員にしても、その社員が集団利益を目指す上で、実害なく一定の役割を果たしているのであれば、排除しないで、適当に活用し集団の安定を優先したのです。
この「チーム戦」を重視する集団主義が、「エコノミックアニマル」「社畜」といわれた士気の高い社員によって構成された「成長する日本株式会社」の実相であったのです。
第三に、「ムラ社会構造で安定を確保する」
日本は、「ムラ社会」だとよく言われました。「ムラ社会」では、内と外を無意識にせよ区別してしまう傾向があります。
例えば、株式の「法人所有」は「ムラ社会」的ネットワークの典型です。株式の「法人所有」により「ムラ」外からの経営への介入を防ぎ、株価の動向に左右されない安定的した経営を行うことが可能になります。そこでは一般株主は「ムラ」外なのです。
また「年功序列型終身雇用制度」も、「ムラ」内で切磋琢磨し、「ムラ」外への人的リソースと技術の漏出を防ぐという意味で、「ムラ社会」を維持するための重要な装置であるといえます。「ムラ」外へ出るというのは、裏切りに似た罪悪感を持たされてしまうのです。
「ケイレツ」(下請構造)も、「ムラ社会」で説明可能です。「ケイレツ」に属する企業群は、「ムラ」内で重層的な「タテ型」構造を持ち、中核企業を中心にサプライチェーンと利益共同体を構築しています。
今日、「ケイレツ」は自由な経済活動を妨げ、あるいは上部構造が、下部構造をなす下請企業を搾取するという弊害が指摘されますが、実際は、そうした対立的関係になることはまれで、下請企業群はサプライヤーとして安定的な成長と繁栄をともに享受する「ムラ」内の互助的利益共同体のメンバーであったのです。
現に、最初に「ケイレツ」の弊害を問題視したのは、抑圧される「ムラ」内の下請企業からではなく、「ムラ」外、すなわち海外であり、その攻撃の矛先は搾取構造ではなく排他性にありました。「ケイレツ」構造は参入障壁の一つとして日米経済構造協議の机上に上げられたのです。
ところで、「失われた20年」では、外圧や円高によって、多くの中核企業が製造拠点を海外に移しました。そして、この動きに対応できず、国内に取り残された下請企業は自立を求められ、低廉な輸入製品との勝ち目の薄い競争に直面することになりました。
「ケイレツ」企業の多くは高い技術と士気の旺盛な中小企業であり、この分厚い中小企業群が、日本の高度経済成長の原動力でありました。
しかし、中核企業の海外進出により、販路と信用の背景を失うことで、中小企業群は脆弱化しサプライチェーンの隘路となって日本の経済そのものを苦境に追い込んでいます。
パンデミックやウクライナ戦争以降、国内における「サプライチェーン」の再構築が、いま喫緊の課題となっていますが、一旦壊れた「ムラ社会」を再構築するのはもはや不可能なことで、海外資本や国の補助金に頼らざるを得ないのが実情になっています。
第四に、「おカネのことはメインバンクに任せる」
戦後の財閥解体により株式が放出され、株式市場の民主化を進みましたが、戦争で壊滅した経済を建て直すには力不足で、政財官三位一体となった銀行による間接金融が資金調達の中心となりました。従って戦後1980年代中頃まで、日本の金融は、ずっとオーバーローン(銀行の貸出が預金を上回り、恒常的に日本銀行からの借入に依存している状態)の状態でした。
こうした金欠の日本経済にとって、経済成長に必要な資金をどのように調達し配分するかということこそが、戦後長らく産業政策上の重要な課題であり、その中心となった日本の銀行は巨大化し、やがてメインバンクを中心とした巨大な企業グループが生まれます。
銀行は、資金を効率的に集め、回すために中核企業を「ケイレツ」ごと取り込み、資金決済を一元化し、「終身雇用」を前提とした会社ぐるみの個人貯蓄を取り込んで「ジャパノミクス」にマッチした金融システムを構築していきます。日々の企業間取引においても、メインバンクの存在が重視されるので、おカネの集約のみならず、人的交流も行い、銀行を中心とした「ムラ社会」を形作っていきました。
繰り返しになりますが、「ジャパノミクス」は、企業の永続性の確保を目標とし、そのためには、「ムラ」内の社員や取引先企業、顧客、銀行との信頼関係を重視し、一般株主は「ムラ」外に位置づけていました。
それに対し、欧米の「株主資本主義」の「ショートターミズム」(短期志向)経営では、会社の存続や長期的成長に必要な投資や雇用の安定性が確保できず、やがて経済全体が沈滞化する、それが当時のアメリカやイギリスの経済的苦境の原因であるとみていたのです。そして、世界は「ジャパノミクス」に学ばなければならない、とまで考えるようになったのです。
そう思ったのは、日本人だけではありません。
マレーシアのマハティール首相は、1981年に、日本の成功と発展の秘訣は、国民の労働倫理、勤労意欲、学習意欲、道徳、経営力にあるとし、これらの要素を取り入れることで国の発展に寄与させようという「Look East」政策を提言しました。これは、個人の利益より集団の利益を優先する「ジャパノミクス」そのものだったのです。
しかし、この時期そんな「ジャパノミクス」を欧米社会の人々は冷ややかに見ていました。
日本人は、「ウサギ小屋」に棲む、奇怪な「エコノミックアニマル」(経済的動物)であり、仕事に人生のすべてを捧げる「ワーカホリック」(働き中毒)であると揶揄し、日本は自由主義、民主主義国としての体裁を取り繕ってはいるが、排外的で異端異形であり、自由市場資本主義のルールから逸脱していると主張し始めるのです。