「ジャパノミクス」ってなんどいや(32)~「日本列島改造論」の現代的意味。
ところで、前講の「茹でガエル」経済論のように数十年先の未来の経済社会をイメージし、そこからバックキャストして経済戦略に落とし込み、それを実行に移すのは、それほど容易なことではありません。
長期的ビジョンをもって経営に当たることができるということは、確かにリーダーにとって欠くことのできない要件ではありますが、実際にそのリーダーが描くところの将来像から演繹的に戦略を策定してその通り成功を収めた例はそう多くは見当たらないようです。
例えば、以前ご紹介した田中角栄の「日本列島改造論」。
田中角栄が、54歳の若さで総理大臣になったのが1972年の7月。
1972年というのは、大阪万博が終わって高度経済成長の踊り場となった年で、これまでのように海外から技術と原材料を輸入し、低廉で優れた製品として輸出する加工貿易だけでやっていけない時代が近いのではないかと人びとが感じ始めた時期でもありました。そんな時代に、田中角栄という革新的なビジョンを持った若く力強いリーダーの登場は熱狂を以て迎えられました。
後に「日本列島改造論」は、総裁選を勝ち抜くためのにわか作りのプロパガンダのように受け止められてきたようですが、そこで示された提言のひとつひとつを丁寧に読んでいけば、実はこれがにわか作りのリーフレットのようなものではなかったことがわかります。
日米繊維交渉やオイルショックで日本を取り巻く国際経済環境が変わった、一方で自らの豊かさを実感した国民の価値観自体が変化してきた、だから、これまでとは全く異なる新しい経済モデルを構築しなければならない、そこで、15年後の1985年(昭和60年)に「実現すべき未来社会」を想像し、その実現のために「解決しなければならない課題」とその「処方箋」を提言しようとしたのが「日本列島改造論」です。
一つには、対米関係の見直しです。
首相になる直前まで、通産大臣として繊維交渉の矢面に立ち対米通商交渉の厳しさを体験していたために、首相になってからは、対米依存一辺倒ではなく、日中国交回復や中東や東南アジアとの資源外交を積極的に行いました。
二つめには、過疎と都市人口の集中です。
人口と産業の集中は都市の生活環境の悪化と地方の過疎化を招きました。これを、解決するには、物的・人的リソースの流れを、これまでの高度経済成長モデルである「地方から都市ヘ」ではなく、逆に「都市から地方へ」と逆流させることで、新しい位置エネルギーを作りだし国民経済全体を嵩上げする成長するモデルを作ることです。
三つめには、その前提となる地方への産業立地と農業の大規模化、工場化です。地方に産業を興し、農業を近代化しつつ、リソースの逆流を加速するために交通網や通信網といったインフラストラクチュアを整備して、都市と地方の経済的時間的距離を短縮すべきだと考えました。
四つ目には、公害問題です。
都市部では空気と水の劣化、地方では国や企業の責任において「公害問題」の早期解決を図らなくてはならない、ということを明確に示さなければならないとしています。
ざっくりいえば、これが「日本列島改造論」の骨子なのです。
ところで、このように「日本列島改造論」も「茹でガエル」経済論での提言と同じく、望ましい将来像から演繹して、現代の政策を策定した「バックキャスト政策論」です。
しかし、多くの「バックキャスト政策論」がそうであるように、その後の歩みは、「日本列島改造論」が目指した「昭和60年モデル」とは全く違った道を辿ることになります。
それどころか、「日本列島改造論」は、「土地高騰、狂乱物価の元凶」、「田中角栄=金権政治」、「産業誘致=公害の拡散」というふうに、典型的な代表性ヒューリスティックあるいは感情性ヒューリスティックで否定的に片づけられてしまうことになりました。(ヒューリスティックとは、先入観や経験に基づいて直感的に正しそうな答えに飛びつく思考法のことをいいます)
日本経済はどんな転帰を辿ったでしょうか。
まず一つに、地方への首都機能分散化や産業の振興どころか、当時大阪に本社を構えていた商社、銀行、生損保など大企業の本社機能の多くが、効率化、情報の収集、意思決定の迅速化を理由に、関西圏との二本社体制から東京に一本化され、東京一極集中が加速しました。
物的資源、人的資源、情報資源、金融資産は、昭和から平成、令和と時代が進むにつれ、霞ヶ関と大東京圏に集中しています。
一方、地方に立地すべきとされた生産拠点は、当時構想されていた地方のテクノポリスを素通りして、より低廉な原材料と人的資源の得られる中国や東南アジアに移転され、地方での経済成長力は劣化しました。。
とくに深刻なのは、人的資源の配分の問題です。
企業の東京一極集中は、地方から優秀な若者を吸い上げることになりました。一方、市場原理を取り入れて国公立大学の学費を引き上げたことで(1975年の国公立大学の授業料は私立大学の5分の1以下でしたが、現在では3分の2でさほど変わらなくなってきています)地方の国公立大学は地盤沈下します。
一定程度の優秀な学生が、地元の国公立大学に進学し、卒業後は有力な地元優良企業や大企業の生産拠点に就職し、あるいは、地方公務員や政治家として地域の産業文化の発展に尽くし、あるいは、研究者・教育者として地域の人材育成に当たるといった、地域での「人的資源の再生産のサイクル」が崩壊してしまいました。
若年層を中心に、国の人口減少を一手に引き受けるように地方の過疎化が急速に進行し、地方の税収は減少し、地方経済を支えていた産業基盤が衰退し、それがさらなる人的資源の流出を招くことになりました。
しかも、地方から苦労して東京の大学に入学し卒業したとしても、大学別採用枠には限界があるため就職競争が激しく、多くの優秀な学生が、必ずしもその能力に見合う職業に就けるとは限らなくなっています。
かくして、地方から若者が消え、その若者を東京では有効に生かすことが出来なくなり、あたら優秀な若年層の人的資源がロスされてしまう結果を招きました。
さらに、都市の内部での貧富の格差が拡大しました。
都市部においては、多少収入が良くても、それに勝る消費意欲が旺盛なため、飢餓感を亢進させ、ほどほどで満足する一億総中流社会から、「少数の富める者」と望む職にあぶれる「ワーキングプア」などの「多数の貧しい者」の混在する社会が出現することになります。
東京のような大都市では、平均的な家庭でも複数の子供を育てるのは難しく、子供は作っても一人、頑張っても二人というのが実情です。そのため、少子化の流れを止めることができません。
一方、当時最も心配された公害と石油などの資源制約は、技術の発達と法整備で公害は軽減され、石油資源についても枯渇するような危機は現出しませんでした。今問題となっているのは、枯渇どころか資源の大量使用によるCO2の排出、つまり地球温暖化が喫緊の問題です。
このように、「バックキャスト政策論」は必ず一部は外れ、一部は当たります。当然のことながら、理論通りに社会は変わっていかない、こういったことは社会科学のもつ宿痾です。
将来像からバックキャストして現在の戦略を立てるというやり方には、
⑴ 確かな将来のことは誰もわからない
⑵ 期待的観測が、悲観的予測に優先する
⑶ 仮に悲観的予測にたって計画を立てたとしても、それへの対策そのものが、「この対策さえ打てばうまくいく」というふうな楽観的期待を暗に前提している、等の心理的バイアスに影響されるという問題があります。
そして、描く将来像が長期であればあるほど、当然このバイアスのブレは大きくなります。人間の想像力は創造の母ではありますが、人間の想像力には限界があることを謙虚に認識しておくべきなのでしょう。
科学技術の世界ですら、どんな革新的なものでも地道な実験や思考実験の延長線に生まれるといいます。
まして、多数の人々から構成される経済社会の研究に関して歴史の呪縛からは逃れることはできません。それまでの経緯とは全く異なる断絶的で革命的な思想によって革新的な経済社会が、ある日突然現出したというような史実は見当たりません。
共産主義革命や独立戦争といえども、「因果は糾える縄のごとし」で、連続的な因果関係の積み上げの中から生まれてきたのです。であるからこそ、過去の事象の因果関係を探ることでしか現代を解釈することが出来ないのです。
我々は先人たちの肩に乗って未来へつながる道を見ているといいます。しかも、それも先人たちに比べれば少しだけ(肩の分だけ)視座が高いだけで、長い歴史から見ればわずかな差にしか過ぎません。しかも、地平線の先は見えないのです。
ローマの哲人セネカがいうように「未来は分からないし、今は一瞬だ。確実なのは過去だけである」
それゆえに、先人の知恵や足跡から正しく謙虚に過去を学ばなければ、現代を理解できないし、近未来ですら予測することはできないのです。
「危機感なき茹でガエル日本~過去の延長線上に未来はない~」では「未来は予測するものではなく創るものだ。」と述べていますが、些か傲慢に聞こえます。
本来、「未来」という概念は曖昧なもので、端的に言えば「何とでもいえる」のです。予測する未来には、「こうなるだろう」未来、「こうあってほしい」未来、「こうあってはならない」未来、などいろいろあります。政策提言者がどのような未来を予測するのかによって、政策や戦略は大きく違ったものになる。要は価値判断の問題にすぎません。
これまで述べてきたように、未来の予測は、多分に「期待」や「恐怖」に支配され、ときに極端に「楽観的」、でなければ、極端に「悲観的」なバイアスに晒されます。
日米開戦直前に、総力戦研究所の若手文民エリートが敗戦の将来像をシミュレートしながらも、時代の空気に流されて、日の目を見ないまま埋もれてしまう姿を描いた「昭和16年夏の敗戦」の巻末では、著者である猪瀬直樹氏と勝間和代氏の対談が掲載されていますが、そこで勝間氏は「なぜ、日本人には歴史を研究して現在に生かすという発想が薄いのでしょうね」と嘆いています。
繰り返しになりますが、未来はやはり過去の延長線にあります。ですから少しでも蓋然性の高い未来を予測したいと思うならば、過去の先人の経験の研究を積み上げるしかありません。そして、そうしたやり方で予測が確からしくなるとするならば、それは「人は変わらない、同じことを繰り返す」という前提が「真」だからです。
「昔起こった出来事をよくながめ、現在行われつつあるすべての変化を眺めれば、未来のことも予見することができる。なぜならそれは必ず同様のものであろうし、現在生起しつつあるものごとのリズムから、離れるわけにはいかないだろうから」(マルクス・アウレリウス「自省録」)
ですから、為政者や経営者は、「確定している」過去と「経験しつつある」現在への深い理解力と謙虚で細心な洞察力と冷静な直感力を持たなければ、どんな理想的な未来を予測したとしても、それは絵に描いた餅となってしまいます。
そこで「日本列島改造論」をバックキャスト政策論としてではなく、「過去」の経済史上の資料として、読み解いてみると新しい視界が開けてきます。
まず、日本には、シンガポールやかつてのベネツィアなどの都市国家に比べれば、豊かな国土と海洋資源があります。
それに、少子高齢化、人口減少の危機が叫ばれていますが、いまのところ1億2千万人もの人びとがいて、しかもその人びとの多くは教育の行き届いた高い知性と長い歴史と共通の倫理観を持っています。
これら豊かな自然資源と高品質の人的資源を有効に活用するためには、地方の活性化が不可避です。
最近になってようやく、「地産地消」や「地方創生」といったレベルではなく、地方における高等教育システムの再建、製造業を中心とした産業育成、税務面も含めた地方財政の自立、地方と都市を結ぶ交通・デジタル・エネルギーなどのインフラストラクチャーの高度化を、国家戦略として考えていこうという議論が聞かれるようになってきました。
田中角栄は、地方経済の強靱さが、実は日本の経済社会の強みであるべきこと、地方の潜在力の大きさを間違いなく信じていました。
そもそも欧米や中国のような強大な専制君主を戴いた歴史を日本は持っていません。日本という国のおおよその骨格が出来上がったのは、平安期以降ですが、平安時代の天皇と摂関政治と荘園制の関係、鎌倉時代の征夷大将軍と執権政治と御家人という武士集団との関係、室町時代の征夷大将軍と守護大名や戦国大名のような分国制の関係、そして江戸時代の幕藩体制、いずれも日本は多重の権力構造を持っていました。
天皇や征夷大将軍といった絶対的権力者が、中国や西欧における皇帝や専制君主のように、国の末端まで中央集権的に支配した歴史をもたないのです。
その歴史から敷衍して考えてみると、元来、日本の経済社会というものは、自らや自らが属する集団、荘園や分国、あるいは藩といった集団の「私権意識」の強い、極めて「分権的」で「入れ子」構造をもった「集団」の集合体で経済社会全体が形作られているという見立てが確からしく思えます。
そして、それが今もそうであるならば、そういった経済社会をうまく動かすために必要なのは、会社と個人、会社と会社、地方都市と地方都市、地方都市と東京や中央政府を結ぶパイプラインとそれを動かす人を育てる教育システムということになります。
こうした視点に立って、個人、企業、地方、中央との関係において生じてしまった格差社会をどのように是正するか考えるとき、新しい形で日本経済の持続的成長を目指そうとした「日本列島改造論」の含意を再検討することはあながち荒唐無稽なことではないと思うのです。