日本的な、あまりに日本的な・・・ 「ジャパノミクス」って、なんどいや?(24)
第24講 「ジャパノミクス」は転生できる?
とある小学校の社会の授業・・
「ここに、ある目的地にある商品を運ぶことを仕事とする一台のトラック(会社)があります。目的地には商品を受け取る人(お客様)、出発地には商品を運び入れる人(従業員)がいます。車の中には運転手(社長)と助手席にナビゲートする人(取締役・監査役・経理部長)がいます。トラックの持ち主(株主)は家でテレビを見ています。」
さてここで、先生が、教室の子供に対して「誰が一番大事な仕事をしている人ですか?」と質問したら、日本のたいていの子供たちは、「みんな大事だけれど、運転する人!」と答えるのではないでしょうか?
しかし、先生の正解は、家でテレビを見ている「トラック」を所有するなのです。
なぜなら、そもそもトラックがなければ仕事ができないから。
もちろん、運転する人や、商品をトラックに積み込む人がいなくても、仕事ができませんが、それは、雇えばいいのです。ナビゲーターに運転手や積み込む人がちゃんと仕事をしているか監視させればいいのです。ですから、トラックの所有者が一番なのです。
そしてこの見方の違いは、仕事の値打ちに対する考え方の違いによります。
この仕事の値打ちは、トラックそのものが生み出す、と先生は考えます。
でも、子供は、この仕事の値打ちはみんなで作るもんなんだ、と考えます。
この稚拙なたとえ話は、道徳の話ではなく企業統治の話です。
アングロサクソン型企業統治では、このたとえ話であれば「先生」がやはり正解です。
西欧での事業における資本(株主)と経営(社長)の役割は、大航海時代のスペインのイザベル女王とコロンブスの時代から始まるか、十字軍に始まるたか諸説ありますが、いずれにせよはっきりと最初から分離されていたのです。
コロンブスら大航海時代の冒険者たちは、イザベル女王やエンリケ航海王子のようなパトロンたちから得た資金を元手に船を買い、船員を雇って、リスクを背負って、未知の国の富を求めて海へ乗り出します。
船長(経営者)が、資金の出し手であるパトロンたちへの利益のために努めなくてはならないというのは、資金がなければ、船と船員が得られない(事業が興せない)のであるから、どっちが偉いかはハナから自明のことなのです。
「ジャパノミクス」の根底にある企業統治の考え方は、どちらかというと「子供」の意見に近いようです。
先の高橋亀吉氏の議論を思い出して下さい。戦前の財閥は、自らが資本家であり経営者であって、グループの中に銀行まで抱えていました。しかし、その後、資本家は、だんだん企業と分離し、経営に責任を持たなくなってきます。だから、企業家(社長)が一番えらくて、資本家(株主)は寝ているだけだというのです。
たとえ話で言うと、日本では、運転手(社長)が一番偉くて、助手席には社員から成り上がった番頭(取締役)を座らせ、ナビゲーター(監査役等)は後部座席にいたりします。運転手はひたすらトラックをちゃんと走らせて、お客様のところにいかに早く間違いなく届けるかに専心します。そのために、お客様・経営者・従業員が一つの「集団」を形成して、トラックを使って良い仕事をやろうじゃないかというかたちになっていて、トラックの所有者はそのサークルから、ちょっと外されてしまっているのです。
これを「会社本位主義」とか「法人資本主義」といい、1980年代以降、欧米からも、国内からも、めちゃくちゃ叩かれ続けてきたのは既に見たとおりです。
どうしてこうなのか、ずいぶんさかのぼって考えてみます。
(江戸時代までの商家)
井原西鶴は「日本永代蔵」の中で商家の心得るべきものとして次のようなことを言っています。
・・・本業だけに一筋に専心して、客の売物買物を大事に取り仕切っておれば、何の気遣いもない。逆に無理に引き締めて、地味に経営しすぎると、かならず衰微して遠からず潰れる。
・・・金持ちには才覚の外に幸運が手伝わなければならない。
・・・若いときには、親の指図を受けて働き、その後は自分の力で稼ぎ、四五歳くらいまでに一生困らぬだけの基礎を固める。町人の出世というのは、奉公人(社員)を立派に仕立てて女房を持たせ、その家の暖簾(商権、商筋)を分けてやる(暖簾分け、グループ化・系列化する)ことであり、これこそ主人たるものの道である。このことによって親店の「暖簾」も発展し、ネットワークも広がる。
・・・一方、「利」のみを求め、人の道に外れた仕事をするというのでは、たまたま人間に生まれても生きていく甲斐はない。世間並みの世渡りをする(協働して仕事をする)のが人間というものである。分限者(良い経営者)になるにはその心を大きく持ち、良い手代(社員)を抱え、育てること、そのことが大切なのである。
(明治維新後、日本の資本主義勃興期の商家)
お札になってブームですが、渋沢栄一の「論語と算盤」は、経営論の必読書です。
そこでは、国家や社会との関わりにおいて、日本人が商いをする上で心すべき「心得」、すなわち「経営論」を説いています。そして、国力の源泉は、政治力や軍事力ではなく国の富をなす経済力であるとし、そのための「利殖」を求めることは、人の「仁義・道徳」と矛盾しないといいます。
「利殖」をなすに当たっては、その経済行為が「仁義・道徳」によるものでなければ、長続きせず家業は衰える、といいます。これは、江戸時代の石田梅岩の石門心学の考え方そのものです。(ちなみに、パナソニックの創業者松下幸之助翁は、終生石田梅岩の「都鄙問答」を愛読していたといわれています)
・・・経営者たるものは、その「利殖」を生み、経済力を高める行為が、道理(正当性)を以て、国家社会の利益になるかを絶えず考えなくてはならない。
・・・その上で、知恵と意志と情愛を以て常識を保ち、これを発達せしめれば、「真の才智」、今の言葉でいうと、イノベーションがうまれる。
・・・得た富というものは、自己一人の専有と思うのは大間違いで、「個人の富は国家の富である」と考えなくてはならない。なぜなら、自分と自分の社業が成り立つのは国家社会のお陰であり、この国家に報いるに救済事業(社会貢献)をなすのは当たり前だ。
明治5年創業の伊藤忠商事の始祖伊藤忠兵衛は、
・・・商売は菩薩の行、商売道の尊さは、売り買い、いずれをも益し、世の不足を埋め、御仏の心にかなうもの、すなわち「売り手によし、買い手によし、世間によし」といいます。
これが「三方よし」です。
自らの利益のみを追求することをよしとせず、社会への貢献をはたすべきであるという現代のCSRにつながる考え方であるとして、今日注目されていますが、日本人の経営観や経済倫理として特に珍しいものではなく、多くの会社の社是社訓になっています。
また、依然紹介しました山崎豊子の「暖簾」という小説でも、
・・・「暖簾」は、しょせん布きれであるが、実は商人の心のよりどころで、商人の心構えを決めるところである。「暖簾」の価値というものは、主人であるところの社長の経営力だけではなく、従業員や家族、お客様や仕入れ先、地域社会によって築かれていく。
そして、「暖簾」への信用と矜持があってこそ、社員は、人のできない苦労も出来、人の出来ない立派なこともでき、社業を反映させることが出来る、というのです。
それゆえ、商人は己の利得のみを追求するのではなく「暖簾」を守り継承することに努力と忍耐を尽くし、己が生かされている社会にも貢献しなければならないと考えます。この小説でも、主人公が、上方経済の地盤沈下を憂え、自分の会社だけではなく、会社の属する船場の再興を誓うところで結んでいるのです。
まとめてみましょう。
伝統的な日本型の経営というものは、「永続性」を重んじて、地道に本業を受け継ぎ守りながら、いかにして国家や社会にの要請に応じて貢献出来るか、絶えず知を働かせなければならない。利はコンプライアンスを守り、公正に得たものでなくてはならない。会社のつとめは、人を育て、社員、お客様、社会すべてに利が渡るようにしなければならない・・・というものです。
ところで、こうした経営のあり方はちっとも古いものとは感じられません。世界の常識では、むしろ、新しい考え方なのです。
2019年、アメリカの主要企業が名を連ねる財界ロビー団体である「ビジネスラウンドテーブル」が「企業の目的に関する声明」と題された書簡を発表しました。
この声明では、1980年代以降の経済社会を支配してきた「株主資本主義」の思想的根拠となってきたフリードマンの「企業の社会的責任は利益を極大化することである」という世界観を真っ向から否定しています。
そして「企業が説明責任を負う相手は、顧客、従業員、サプライヤー、コミュニティ、株主の5者であり、株主はその一つに過ぎない」と改めました。
これまでの「ステークホルダー資本主義」では、「ステークホルダー」イコール「株主」でした。しかし、このビジネスラウンドテーブルで定義している「ステークホルダー資本主義」の「ステークホルダー」は、顧客、従業員、サプライヤー、コミュニティ、株主の5者を並べたのです。
また、多くの経営者に信奉されているドラッカーも「企業は何のために存在しているのか。それは事業を通じて社会に貢献するためである」と断言しています。
このように企業統治の考え方は、自由市場資本主義やグローバリズム市場主義から大きな転換期を迎えているといわれていますが、これは「ジャパノミクス」日本型経営システムの「転生」ではないかと、贔屓目にみることもできるのです。
それでも、1980年代から徐々に日本の経済社会に浸透し始めた自由市場資本主義やグローバリズムの潮流は、金融危機、リーマンショックを経てもとどまることなく、アベノミクス「第三の矢」として「コーポレートガバナンス改革」は、「株主のための企業統治」という自由市場資本主義的理念に立ったアングロ・サクソン型企業統治(株主資本主義)に準拠して取り入れられ、漸次強化されてきています。
これから先の議論は、このように自由市場資本主義やグローバリズムに対する視座が変わりつつある中で、このコーポレートガバナンス改革と「ジャパノミクス」日本型経営システムの現在地がどのように見いだせるかということを考えていくことになります。