「ジャパノミクス」ってなんどいや? (10)
第10講 「ジャパノミクス」は、死んだ?
そしてさらに忘れてはならないのは、アメリカとの通商交渉での議論の流れが、国内の「構造改革論」と密接な関係があったということです。
1990年3月の日米首脳会談において、初めて「構造協議」(日米貿易摩擦解消のためにアメリカが立案した協議体)が机上に乗せられることになります。その協議に先立って1990年1月にスイスのベルンで両国の非公式会議が行われましたが、そのときに判明したアメリカの対日要求は、優に200項目を超える膨大な量で構成されていたといわれてます。
これまでも「MOSS協議(市場分野別個別協議)」や「日米円ドル委員会」(正式には「日米共同円・ドルレート、金融、資本市場問題特別会合」)などの日米2国間での通商交渉は継続して行われてきましたが、当初それは、あくまで個別品目や為替などに範囲を限定したものでありました。しかし、対日赤字が縮小しないことにしびれを切らしたアメリカは、問題が日本のさまざまな分野での「非関税障壁」すなわち市場の閉鎖性にあり、それをもたらすそれぞれの産業分野の「構造」の改革と市場の自由化を、直接日本政府に迫るべきだと考えるようになります。
つまり、両国間の通商問題の根本的解決は、日本の商慣習や慣行を含む日本固有の経済「構造」そのものを変えることであって、従って、その処方箋の第一は「ジャパノミクス」に「構造」的にビルトインされている規制の緩和(ディレギュレーション)と商品・金融市場の徹底的な自由化にある、ということに行き着くのです。
日米首脳会談後の協議は、その年の6月に「日本構造協議最終報告」としてとりまとめられ、そこに盛り込まれた両国の経済構造改善策について進展状況を点検するために、10月から1992年7月までに4回にわたるフォローアップ会合を行うことになったのです。今日的表現でわかりやすくたとえれば、定量的計測が難しい通商問題の解決にKPI(Key performance indicator)を課し、その進捗を両国が(実際はアメリカが)チェックし成績表をつけることにする、といったようなものです。
そしてこの「構造協議」は、1993年の宮沢・クリントン日米会議会議を経て「日米包括経済協議」に格上げされ、ここに日本経済の「構造改革論」は完全に国内外で連動することになったのです。
この「構造協議」の背景には、自由市場資本主義があったことは既に述べましたが、もう少し筆を進めてみたいと思います。
そもそも自由貿易というのは、国際間の財貨やサービスの取引において、恣意的な保護貿易や為替介入を行わず、市場メカニズムに任せれば、資源が最適に配分され、お互いがより多くの利得を得ることができ、ひいては世界の貿易市場が拡大する、という考え方です。この自由貿易の考え方そのものは、特殊な事情が無い限り、真正面から異を唱える理由のない「公理」に近いものです。
しかしながら、これまでみたように、この「構造協議」には、自由貿易主義を超えた「相互主義」の考え方が含まれていました。
本来「相互主義」とは、二国間の最恵国待遇のように、相手国の自国に対する待遇と同等の待遇を与えるという自由貿易主義の枠内での基本的なルールをいいます。
しかし当時の交渉では、日本に対し貿易の自由化やアメリカにとって都合の良いように経済構造を変革するよう迫りながら、それが満足のいくものでない限り、相応の制裁を科すことができるという風に拡大解釈されたのです。これは、二国間貿易において、「条件付きの」保護貿易主義を是認するものであり、当事国の社会的経済的構造の違いを与件としたリカードゥの「比較優位」(自由貿易の下で労働生産性と利益実現できる実現できるという概念)からは、明らかに逸脱していました。
こうしたアメリカにおける「相互主義」の概念の拡大解釈は、近年のトランプ前大統領の貿易政策にもみられるように、過去でも現代でもしばしば行なわれることなのです。
一方の国内では、1990年代中頃からは、「構造改革派」エコノミストとこれまでの主流派であった「ケインズ派」エコノミストとの間の激しい論戦が、テレビや紙面で、しばしば報じられるようになります。
「ケインズ派」は、不況の真因は、レーガノミクスの主張する供給の問題ではなく、あくまで総需要の不足であり、これに対する処方箋は、財政の積極出動による需要喚起によるしかない、これによって財政赤字は一時的には増大するが、その後の景気回復による税収の限界的増加で緩和されるはずだと主張します。また、不況の原因は不良債権が存在そのものであるとして、多くの不良債権先を抱える金融機関は市場から退出させるべきだとする「構造改革派」の自由市場資本主義的な「ハードランディング」(自然淘汰策)は、信用市場の収縮と逆資産効果を呼び込んで事態をますます深刻化させる、そもそも不良債権は景気悪化の結果であって、不良債権問題が片付きさえすれば景気は回復するという保証はない、と主張しました。
いまにして思うと、「ケインズ派」の主張は、常識的で、極めてまっとうな意見でしたが、先に述べたように、当時の人びとには経済的閉塞感からの脱却と変化を望む「空気」が強く、「構造改革派」の意見の方が圧倒的に優勢でありました。
これを1970年から80年代に活躍した社会評論家の山本七平氏の定義する「空気」の研究(「「空気」の研究」文藝春秋 1977年)という言葉を用いて喩えれば、まさに「構造改革=規制緩和」を推し進める改革派が、「日本的経済システム=利権構造」を守ろうとする守旧派を退治するかのような「空気」が時代を支配するようになっていったということになります。
当時の未曾有の不況下では、倫理性や合理性よりも、直感的に理解されやすい極論が受け入れられやすく、より直截にいえば「好き嫌い」といった感情が優勢になって社会的「空気」が醸成されていったのです。現に、2001年4月に小泉政権が誕生し、「自民党をぶっ壊す」「守旧派打倒」といった分かりやすい善悪二元論で郵政民営化を推し進めた2003年9月の改造内閣は、民意の支持の下で政権発足3年を経ても50%近い内閣支持率を得ていたのです。
その後は、何かといえば「構造の問題」であり、その「構造改革」に反対する者は、日本を良い方向に改革するのを阻害する「空気」を読めない「守旧派」に属する人である、と見られる傾向が強まります。そうした「空気」の圧力は強力で、景気回復に総需要管理政策を主張するケインズ派や、不良債権問題を時間をかけて解決していこうという「ソフトランディング」論者の声はますます小さくなっていきました。
当時金融危機の処理に当たっていた大蔵省事務次官の西村吉正氏は、後に当時の政策運営の厳しさを振り返って次のように述懐されています。
「時代の「空気」と無関係に行政運営が行われてはおらず、それどころかそれは非常に大きな要素、いやすべてであったといてもいいほど影響力をもったものだ。」
それほど時代の「空気」というものは、強い影響力を持っていたのです。そして、「空気」をうまく掴んだ政治家は、「民意」を味方につけ、政治的にこれを利用します。
しかし、当時の「空気」を利用した「構造改革派か守旧派か」という単純明瞭な二元論的思考法が蔓延したことが、実は、企業経営や政治家や行政の政策の選択肢の幅を狭めてしまうのです。
それをより直裁にいえば、問題に直面して、従来のような日本人的な調整型の解決はまどろっこしいと考え、むしろ二元論的な思考法で、善悪・白黒をつけて、拙速に解決すべきである、という風な荒っぽいやり方を是とする方向に傾きがちになってしまったということです。
例えば、そこでは、企業経営においてリストラを躊躇うものは守旧派であり、銀行行政や銀行の現場で、厳しく審査し保守的に資産査定できないものも、問題を先送りする守旧派となります。
危機的状況にあるときに、「白か黒か」の二元論的な思考法で、拙速にものごとを解決しようとしたことが、従業員や下請企業や取引先や銀行からの信用を守るぎりぎりの努力を怠ったまま破綻するといった企業経営者のモラルハザードの問題に繋がったし、そういった経営者をみて、銀行の現場でも資金繰りの厳しくなった取引先に対し時間をかけて救済するという限界的な努力をするよりも、机上の査定マニュアルによってトリアージし、不良債権先を削減することを優先するようになっていったのです。
このように1990年代の中頃以降は、もはや「社員や下請は家族も同然」「借りたお金はなんとしても返す」とする経営者や「日本経済を混乱から守る社会的公器である」と誇る銀行マン気質は過去のものとなったかのような様相を呈していたのです。かつてあった分厚い相互間の信用が大きく損なわれてしまったのです。
確かに、1998年から今世紀初頭にかけての時期に起こった様々な事象をクロニクルで振り返ってみますと、彼我の間に基準を設けて一本の線を引き、内と外、あるいは敵と味方、善と悪とに分けて考える二元論で、問題を単純化し、異見を切り捨てていく殺伐としたやり方が目立ってきたように思えます。
しかし、こうした二元論的な発想は、間違いなく、土着的でありながら多面的な「小集団」の「入れ子細工」で構成された「ジャパノミクス」日本型経済システムの基盤となっている「社会的信頼」を深く傷つけます。(この点については、いずれ詳しく触れたいと考えています)
ともあれ、こうした二元論的な議論を経て「ケインズ派」は力を失ってきたし、「変わり者」ではあったけれどもそのケインズ政策の優等生であった「ジャパノミクス」は、罪人であるか、良く言っても「用済み」となりました。
かくして、第1講で述べたように、「ジャパノミクス」日本型経営システムは、もはや顧みられることがないどころか、今も触れてはいけない禁忌であるかのような扱いになってしまったのです。
ところで
この「「ジャパノミクス」ってなんどいや?」は、実は、
「今風のカッコいい、したり顔の現代経営論って、本当に日本経済や企業にとって適切なものなのですか?」
という素朴な疑問から出発しているのです。
そんなわけで、第11講からは、本題からすこし横道にそれて、俯瞰的に
「経済って、なんどいや?」
を考えていきたいと思います。
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