「ジャパノミクス」前史 「ジャパノミクス」って、なんどいや(15)
かつて、司馬遼太郎はこう書いてます。
―日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。ー「この国のかたち 1」(文春文庫)
日本は、島国です。それも、大陸とは結構ヘだったっていて、しかも日本海を北に抜ける対馬海流は、対馬と朝鮮半島付近で流れが速くなり、難所となり兵站上の隘路となります。
島国なので、広大な大陸とは異なり、文明の興亡がなく連続性のある独特(権威と統治が分離した二重構造)の歴史を有しています。
島国なので、海岸線が軍事上の防壁となり、かつ社会文化上の境界線となって、個性的な価値観(人によっては、これをあしざまに「ガラパゴス」という)が育ちやすく、また外来の価値観を、暴力的に押しつけられることなく主体的に取捨選択して改変し、消化して自分のものにすることができました。
つまり、日本という島国は、大陸に「強大な」統一国家が出現しても、海に隔てられているので(元寇や刀伊の入寇はあったものの)征服されることはなく、必要に応じて、大陸や半島の優れた制度や文化を取り入れ、時には関係を遮断して、自らの寸法に合うように独自の社会文化を育てるようなことをしてきたのです。
このような歴史を持っている国は、世界中探しても、なかなかみつかりません。
(日本人による異文化の受容と消化の歴史)
6世紀の飛鳥時代に、大陸から仏教が伝来します。そして続く白鵬期と天平期に、強大な隋や唐との交流を深め、留学僧によって大陸の仏教文化を取り入れて天皇を中心とする政治体制を整え、やがて9世紀の絢爛な「弘仁貞観文化」を花開かせます。
ところが、唐が衰退したとみるや、菅原道真が遣唐使を廃して大陸とは距離を置きます。その結果、平安中期以降は、雅な「国風文化」が育っていきます。おんな文字であった仮名文字が確立し、これによって「源氏物語」などの芳醇な平安文学が生まれます。宗教面では、留学僧でない法然、その教えを発展させた親鸞が、民衆にも受入れやすい浄土教仏教を広めました。
10世紀、大陸に宋が興ると平氏が日宋貿易で財を蓄えようとます。しかし、源平合戦に勝利した鎌倉幕府は大陸に関心を持たず、武士による封建体制の確立に専念し、日本に土着した禅宗を基盤に質実剛健な「鎌倉文化」が展開されます。
15世紀に入ると全盛期の足利義満が勘合貿易による交流を活発化させ、「唐物(からもの)」で飾り立てられた「北山文化」が育ちますが、その後、倭寇の跳梁や応仁の乱で、官製貿易は衰えると、足利義政の禅の簡潔、幽玄を重んじる「東山文化」が確立します。(ちなみに、日本研究者のドナルド・キーン氏は、この「東山文化」を日本文化の精髄であるとしています)
その後倭寇を恐れた明が海禁政策をとるようになりますと、大航海時代に渡来してくる南蛮人との交易で西洋文化の影響を受け、雄渾で豪華絢爛な安土桃山文化が花開きます。この頃渡来したルイス・フロイスは「日本史」で「日本人は本来、新奇なことを好む国民である」といっています。
その後、江戸時代初期に徳川家光の「鎖国令」によって海外からの影響が制限されるようになると、元禄文化・化政文化と「純化」が進み、個性的な日本文化がかたち作られていきます。
しかし一方で、化政期には、長崎に開いた小さな窓から、西洋の知識や技術がさかんに研究され、洋学(蘭学)や西洋画が独自に発達していきます。
確かに「日本人は新奇なことを好む国民」で、江戸時代は、決して閉鎖的でも定常的でもなく、文化面においてきわめて豊潤な時代だったのです。
そして、この個性的な文化が、逆に西欧に輸出され「ジャポニスム」として紹介され、西洋美術界や音楽界に強い影響を与えるようになるのです。
日本人のこのような異文化の受容と消化が、モノ作りにおいて発揮された典型的な例が、戦国時代の「鉄砲伝来」とその国産化と普及です。
1543年、種子島にポルトガル人から火縄銃(たった2丁といわれる)が伝来するや、またたくまに日本の各地に伝播し戦国期の戦闘方法を一変させました。近江国国友、紀伊国根来の鍛冶職人たちが独自の創意工夫で火縄銃を改良し、これを大量生産するシステムを作りあげ、通説では、長篠合戦において織田・徳川連合軍は3000丁もの火縄銃を用意したといわれてます。さすがにその数量は疑わしいとしても、相当数の火縄銃を集団使用したことは間違いないでしょう。長篠合戦は1575年ですから、伝来からわずか30年です。また、ヨーロッパで鉄砲の組織的な使用が一般化したのは、1618年の「三〇年戦争」の頃だといわれてますので、長篠合戦はそれに先立つこと40年にもなります。モノ作りにおける日本人の特性が良くわかる事例だと思います。
(鎖国の下で日本型経済システムの胎動が始まる)
ところで、近世の経済社会の発展が鎖国政策のために、西洋や中国に大きく立ち後れてしまったとするのは、一面的な見方で、実際には、明治維新以降の産業革命やその後の近代的資本主義経済の発展を準備するような独自の経済システムや経済思想を自律的に発達させていたのです。
どのようなシステムや思想があったか、以下いくつかの具体的事例を挙げてみます。
江戸時代には、産業革命の前駆的態様となる問屋制家内工業が発展しまし た。「問屋」とは商品の買入れ、販売の取次ぎをする企業家のことです。そして、その企業家が、市場における需要を見込み、多くの零細な生産者(職人)に生産を委託するというのが、問屋制家内工業の基本的な形態です。
生産者は自宅を作業所とし、自ら所有する生産手段を使って生産を行う「独立職人」ですが、問屋(企業家)が、買い上げ価格の決定権をもち、高利で職人(生産者)に貸付を行うことで、実質的には、資本家(問屋)と労働者(職人)といった前資本主義的従属関係を作っています。このように、この問屋制家内工業は、その後の工場制手工業(マニュファクチュア)、明治維新後の機械制大工業ヘと繋がる前駆的企業形態と位置づけることができ、これが明治維新以降の産業革命の素地となったのです。
ヨーロッパにおけるギルドやハンザ同盟に類するものとして、室町時代後期から「座」や「株仲間」といった組織が自然発生的に成立していました。織田信長は、楽市楽座を設け、いまでいう「規制緩和」で領国経済を活性化させましたが、元禄期に入ると「株仲間」のもっとも重要な機能を、仲間以外の商人の同種営業を禁ずる独占機能とし、これを侵害する者は「お上」に訴えることができるという仕組みになり、田沼意次の時代には、これを奨励して、この営業独占を保障する代償として、「お上」が冥加金、運上金などを取り立てるようになります。
仲間内では競争が禁じられるほか、商品価格、口銭・手間賃などが取り決められ、信用保持のため商品検査、度量衡の統一なども行われました。このように「株仲間」は、自由競争を制限する経済団体ではありましたが、経済法が十分に発達していなかった江戸時代では、商人に一定の規範を守らせる機構としての役割も果たしていたのです。(ただ、商人に規範を身につけさせるという意味で大きな影響力を持ったのは、石田梅岩だといわれてます。これについては、講を変えて触れてみたいと考えています。)
江戸中期「享保の改革」の頃には、大坂堂島でコメの先物市場が成立します。堂島米市場は、わが国における取引所の起源であるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られています。江戸幕府は堂島で行われる正米商い(現物市場)と帳合米商い(米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)、「米切手」での市場取引を公認します。そして、近代取引所におけるような会員制度、清算機能などが整えられた公設市場となったのです。ちなみに、アメリカ最古の穀物取引所のシカゴ商品取引所CBOT(Chicago Board of Trade)が創設されたのは、堂島米市場の1世紀も後の1848年なのです。
次に通貨制度、金融制度です。鎖国により貿易制度はありませんが、通貨制度は整っていたのです。
江戸時代は米本位制で、大坂では蔵米の買い手は掛屋に代銀を支払って「銀切手」を発行してもらい、これを蔵屋敷で「米切手」に交換します。「米切手」は、米市場で取引できるので、やがて米の現物取引をせずにお金のみが動く契約取引が発達するようになりました。
江戸時代では、「三貨制度」といって、 金 ( 小判 、 一分判 )、 銀 ( 丁銀 、 豆板銀 )および 銭 ( 寛永通寳 )という基本通貨が併行流通していました。これらの貨幣間の交換には 幕府 の「触書」による 御定相場(基準レート) がありましたが、実際には 変動相場 で取引され、その交換を行う「両替商」(銀行) が発達します。
さらに、江戸時代には遠隔地への送金にかえて、手形(証明書)で行う「荷為替」取引も広く行われていました。
さらに、インフレやデフレなどの景気変動に対応して、幕府は、時に金の含有率を変更する改鋳を行ない、一種の金融調節を行ったのです。
このように、江戸時代には通貨制度や為替制度についての基本的な理解が、商人間で浸透していたために、維新後の近代的な通貨制度や金融制度への導入がスムーズにできたのではないかと考えられます。
寛政期の経世学者・本多利明(1743~1820)はその書「経世秘策」の中で貿易論を説いています
「日本は海国なれば、渡海・運送・交易は固より国君の天職最第一の国務なれば、万国へ船舶を遣りて、国用の要用たる産物、および金銀銅を抜き日本へ入れ、国力を厚くすべきは海国具足の仕方なり。自国の力を以て治むる計りにては、国力次第に弱り、その弱り皆農民に当たり、農民連年耗減するは自然の勢いなり」と論じ、鎖国下にあっても、来るべき開国に備えて、交易による富国強兵を説いています。
また江戸幕府は鎖国政策と江戸の防衛上、諸藩による大型帆船の建造を禁じましたが、沿海航路は稠密に開拓され、海運業、造船業は活発であり、明治維新後の海運業の隆盛を準備していました。
このように、近世までの歴史をざっと俯瞰しただけで、日本は時代環境に応じて大陸や外国との接触(チャネル)の濃淡を変えながら、独自の文システムシステムを整えていったことがわかります。
こうした歴史を下敷きに、戦後日本の歩みをみてみましょう。
戦後は、これまでの日本がそうであったように、まずは「強大な」隣国・アメリカの自由主義思想、民主主義思想、経済体制、システム、科学技術を徹底的に吸収するところから始まったといえます。その後、日本人は、外部からこれらのものを取り込んだ上で、必要なものを取捨選択し、これを自国固有の社会文化や価値観に適合するように改変し、高度経済成長期に突入していくのです。こういったやり方によって、1960年代以降想定を上回る経済的成功を収めたことにより、独自の「ジャパノミクス」日本型経営システムが形作られていきました。
1980年代は、株と不動産による信用創造によって貨幣が膨張し、円高で強くなった通貨を武器に世界中至る所で、不動産や企業を買い漁り、これを「国際化」と称するようになります。
しかし、前講で述べましたように、この日本固有の「土着的」経済システムが、国際社会で普遍的なものとして受け入れられるわけがなく、かえって、欧米の激しい反発に会うことになります。
そして1990年に起こった信用創造機能の蹉跌、すなわち「バブルの崩壊」への対応に右往左往しているうちに、日本経済は、「独立の丹心を忘れ」て、「強大な」自由市場資本主義とグローバリズムの教義をそのまま受入れ、「ジャパノミクス」日本型経営システムを自ら壊してしまったのです。
日本の歴史で、戦争を経ずしてこのようなことが起こったのは初めてのことかもしれません。
現代の「強大な」経済思想に「海岸線の防壁」など通用しなかったのです。
次回以降は、戦後「ジャパノミクス」日本型経営システムの興隆を、詳細かつクロニクル的に追っていきたいと思います。