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「ジャパノミクス」って、なんどいや? (8)

第8講 「ジャパノミクス」融解のはじまり

ー「敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる「人間復権」の新しい時代を迎えることは不可能ではない。1億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道を進むことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と農村の過疎、農業の行き詰まり、世代間の断絶をなくすために、総力をあげて国内の改革にすすむとき、世界の人びとは文明の先端をすすむ日本をそのなかに見出すであろう」ー
これは、田中角栄元総理大臣の「日本列島改造論」(1972年)から引用した一節です。
いま、これだけ希望に満ちた力強いメッセージを発信できる政治家は、残念ながら見当たりません。

「日本列島改造論」は、1972年に出版されたもので、丁寧に読んでいけばわかりますが、単なるアジテーションではありません。約15年後の昭和60年(1985年)までに日本が直面するであろう問題点をまず示し、そこから「バックキャスト」してその解決のために今何をすべきであるか、極めて具体的な数字を並べて自身の言葉で書いているのです。データ収集や構想の文書化には有能なスタッフがいたでしょうが、田中角栄氏自らの構想を言葉したものとみて間違いないでしょう。興味深いので、これについては、いずれ詳しく触れてみたいと思います。
 
閑話休題。
1970年大坂万博(EXPO70)で日本中が盛り上がったころから、高度経済成長の要件の一つであった自由貿易と輸出主導経済モデルに陰りが出始めます。そもそも万博後景気は踊り場に入る、との観測はありましたが、1971年に「ニクソンショック」という想定外の大事件が起こります。ベトナム戦争による軍事費拡大などで財政が悪化したアメリカが金とドルとの兌換停止を宣言したのです。これによって、1ドル=360円という固定相場制から、円の平価は大幅に切り上がります。1972年には、沖縄返還問題と絡んで日米繊維交渉が決着しますが、その結果主要輸出産業であった繊維業は厳しい状況に陥ります。さらに1973年に第1次石油ショックが追い打ちをかけます。原油価格の上昇が、軽工業から重機械工業への転換を図りつつあった日本経済に深刻な打撃を与えることは避けられない状況となりました。
かくして外部環境の変化によって、有利な平価と低廉な製造原価によって加工貿易で稼ぐという日本の経済成長モデルの前提条件が崩れてしまったのです。田中角栄氏が、「日本列島改造論」を引っ提げて総理大臣になったのはこの頃のことです。

田中角栄氏の「日本列島改造」の試みは、オイルショックと「ロッキード事件」により挫折しましたが、それでも1980年代を通じて日本経済は、個別企業による連続的イノベーションと生産性の向上への取り組みにより、第2次オイルショックなどのさらなる外部環境の悪化を乗り越えて堅調に推移しました。
しかし一方で、輸出主導で貿易黒字を積み上げる日本と欧米諸国との間の貿易摩擦は、次第に深刻化していきます。 ところが、当時の経済誌などを読むと当時の日本の受け止め方が意外にのんびりした論調が多いことに気付かされます。
ー 日本も他の欧米諸国もそれぞれ、社会的・歴史的背景が異なってはいても、ともに市場主義と自由貿易を「是」とする民主主義国家であって、自由貿易は市場原理の働きによって世界経済を活性化させるという共通認識があるはずだ、従って、相互理解を深めて誤解を解き、お互い歩み寄る努力をすれば、いずれ軋轢は解消することが出来るであろうー、
とする見方が多いのです。

 しかし、1989年ベルリンの壁が崩壊し、1991年のソヴィエト社会主義共和国連邦の解体により、東西の冷戦は清算されます。また、自由民主主義と隔絶した中国は天安門事件後も鄧小平の「改革開放路線」は歩みを止めず、共産党一党支配の下でマーケットメカニズムの導入が試みられつつありました。そうした時代の流れを受けて、日本や欧米諸国の間には、自由市場資本主義の正当性が、歴史によって証明されつつあるとの共通認識が芽生え始めました。こうした状況を踏まえたフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1992年)は大きな反響を生みました。
自由市場資本主義の担い手である欧米型民主主義が勝利を収め、これからの世界は「自由主義」「市場主義」の教義の下で、統合へと向かうであろう、といったグローバリズムの機運が盛り上がり主流をなすようになっていったのです。
 そうなると、当然そのグローバリズムのヘゲモニーは誰が握るのか、という点が問題になります。すなわち、「自由主義」「市場主義」を共通項としてもつ「資本主義国」対「資本主義国」の競争があらたに生まれてくることになったのです。
そこで最初に標的とされたのが、ともに敗戦国でありながら驚異的な経済成長を達成した西ドイツ(当時)と日本なのです。「資本主義国」同士の競争は、現象面では「貿易戦争」です。
最初の議論としては、巨額な貿易黒字を抱える両国には世界経済を牽引する義務があるとする「日独機関車論」が持ち出され、さらにドル/円、ドル/マルクの為替レートを多国間交渉、協調介入の枠組みで解決すべきだと考えられました。これが、1985年の先進5カ国によるプラザ合意の伏線となったのです。
しかし、プラザ合意後確かに急速な円高の流れは進んだものの、日本では、「草の根的」企業努力でその影響を吸収してしまい、アメリカの対日赤字は想定ほどには縮小しませんでした。しかも、1980年代の中頃になると、プラザ合意後の円高と総需要喚起のための無理な財政政策で過剰流動性が生まれ、日本経済はバブル景気の時代に突入します。
一方、アメリカでは、対日貿易赤字が縮小しないのは、「異質」で「不公正」で「不公平」な日本の経済構造と日本企業のダンピングなどの経済行動に問題があるからだという、やや感情的で荒っぽい議論が強まってきました。それが、1987年の「包括通商法案」による対日半導体報復や富士通に対する特許違反事件の摘発、1989年4月の包括通商法スーパー301条の適用(スパコン、衛星)、1990年の対米輸出自動車自主規制などの厳しい貿易制限といった形で突きつけられるようになっていったのです。

こうした外部環境の変化に直面しても、まだ1980年代は「企業の永続性」「雇用の安定性」「成長」を普遍的な価値とする「ジャパノミクス」に対する人びとからの信頼は厚く、日本経済そのものにに大きな動揺がみられるようなことはありませんでした。

しかし、それが一変します。

1990年代に入ってバブル経済は崩壊します。バブル崩壊による景気の低迷で国富を失い、人びとの現実の暮らしが厳しくなり、もう日本の経済成長に自信が持てなくなったことで、これまでの日本の経済社会を支えてきた人びとの価値観が変質し始め、前講で触れたように、日本社会の根っこにあった「相互信頼」に基づく共同体意識も揺らぎ始めます。 
これまでは外部環境が悪化しても「相互信頼」に支えられた日本の経済社会の岩盤までが揺らぐことはなかったのですが、長引く不況で閉塞感が高まり、インチキや不祥事が次々と露呈していく中で、政治家や行政官僚のみならず、日本企業の体質そのものの正当性が疑われるようになってきました。人びとは社会への信頼を徐々に失っていったのです。

そして、 この時期の日本での政治面・経済面での相互信頼の揺らぎをさらに加速させたのが、この時期に世界的に自由市場資本主義とグローバリズムという価値観が、急速に日本の経済社会に浸透していったことなのです。自由市場資本主義、特にアングロサクソン型の資本主義が主流となり、グローバル化していく世界の中で、「ジャパノミクス」はおかしい、という議論が、海外からのみならず国内でなされるようになります。

例えば、龍谷大学教授であった奥村宏氏は、大企業の株式所有構造、つまり企業間における「株式の持合い」に着目し、日本型資本主義の特色を「法人資本主義」と名付け、「アングロサクソン型資本主義」との相違点を問題視しました。日本の企業は誰のものかという「所有」の問題を考えたとき、日本の企業間にビルトインされていた「株式の相互持ち合い」という慣行があることは大問題であって、これが資本主義の前提となる公正な競争環境と健全な日本経済の発展を阻害している原因であると論じました。現在の政策投資株解消の淵源はここに始まっているのです。

次回は、この奥村宏氏の「法人資本主義論」から始めたいと思います。

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