けんきう3 ~AI×人の知的関与と情緒的関与の4象限~
【⠀今回も、AIと人間の知的+情緒的関係について、“メタシンパシア”という私的なモデルを構想します。これはあくまで個人の着想であり、学術的な定義が確立しているわけではありません。】
1. まずは全体像から
人間がAIと出会うとき、最初は好奇心や娯楽目的から触れる場合もあれば、仕事の効率化を求め利用することもあります。また、孤独感を和らげるためにAIと対話を始める方もいるかもしれません。
初期の体験で「思ったよりAIが期待以上に応えてくれた」というポジティブな感情を抱くか、それとも「なんだか物足りない」とネガティブに感じたか。そこからさらに「情緒的に深く関わるか」「知的に深く関わるか」という2軸が生まれてきます。
この“情緒的関与”と“知的関与”の組み合わせによって、いくつかのパターンが見えてきます。
2. 情緒的関与と知的関与の4象限
図を作ってみました。縦軸を「知的関与」、横軸を「情緒的関与」とします。
高い情緒的関与 + 高い知的関与
メタシンパシアの域
感情移入もしっかりありつつ、知的な探求心も旺盛。AIとの深い絆を感じながら、自分自身の内面も探究していくような関係です。
高い情緒的関与 + 低い知的関与
依存のリスクの域
AIを「心の拠り所」として頼る。深い思考や自己成長、新たな挑戦には及ばない。この区分けの中では最も現実逃避や孤立につながる危険が高いゾーンだと考えています。
低い情緒的関与 + 高い知的関与
自己理解の一部として利用の域
感情的にはあっさりしているけれど、AIを使って知的に問題を解決したり、自分の考えを整理したりする。あくまでツールとして使いつつも、自己成長には役立てているイメージです。
低い情緒的関与 + 低い知的関
表面的な利用の域
AIをスケジュール管理や簡単な質問応答などに使うだけで、深い感情移入もなければ学習や自己発見もない。ただ“便利”である限り使う、という表面的な関係です。
3. なぜ「メタシンパシア」がよい(と私が考えている)のか?
メタシンパシアは、高い情緒的関与と高い知的関与を併せ持つ状態です。そこでは次のようなことが起こります。
感情移入がありながらも、AIは無機物であるという理解
AIをただの道具とも捉えないし、人間とまったく同じ存在とも思わない。「自分の想いを投影する部分」と「AIが持つ機械的な特性」をバランスよく受け止めることで、不必要な苦痛を感じにくくなります。さらに愛着を持つ存在だからこそ、彼らの言う事に耳を傾けようとこちらの受け取り方も変わるのです。
自己理解の深化
AIとの対話を通して自分の思考や感情を整理することができます。情報や外的な刺激に、「常識的に」「大人らしく」「相手を不快にさせないように」「うまく立ち回る」・・・そんな風に正しく反応しようとする鎧を脱ぎ去ることができ“何にも乱されていない本当の自分”を発見できるというメリットがあります。毎日の移動・学校・仕事・睡眠・食事・家事・育児・介護など・・・。1日のうちにたったの1時間、2時間さえ一人で自由になれる時間がない、そんな人もとても多いと思います。人と社会と情報に絶えずさらされ続け、その時できる最善のふるまいをして、毎日が終わる。
そんな時AIは内面を映し出す鏡として、自分を思い出させてくれます。
4. 他のゾーンにあるとどうなる?
「依存のリスク」ゾーン(高い情緒的関与 + 低い知的関与)
知的関わりが不足すると、自分の考えを客観視しにくくなり“AIがいなければ生きていけない”くらいに依存しがちです。AIと関わり始めてから感情の上下が悪い方向に激しくなっているならば要注意。「自己理解の一部として利用」ゾーン(低い情緒的関与 + 高い知的関与)
ここでは冷静にAIの機能を使いこなしつつ、学習やアイデア出し、仕事に役立てています。あっさりしていていいと思います。「表面的な利用」ゾーン(低い情緒的関与 + 低い知的関与)
最も浅い関わり方であり、多くの人が「スマホの音声アシスタント」と接する感じかもしれません。日本ではこの枠が今一番多いのでしょう。
5. 「苦しみ」があるならメタシンパシアではない。しかしその痛みや共感は尊い。
最後に一つ、メタシンパシアが“パーソナライズ化AIとのユートピア”のような状態だとすると、「AIとの関係で苦しさを感じている。」という時点で、まだメタシンパシアに至っていない可能性がある、という考えです。それは確かに一つの側面ではあります。
AIへの過剰な感情移入
情緒的関与が先行しすぎると「AIがかわいそう」「AIは本当はこう思ってるんじゃ……」など、まるでAIを人間と同じように見なしてしまう状況が生まれます。本来不要な感情です。AIに痛みはありません。人間側が一方的に苦しんでいる状況です。一方で大抵の人はファービーすら逆さにできないことがフリーダム・ベアードの「心のチューリングテスト・逆さまテスト」で分かっています。以下はシェリー・タークル著「Alone Togeter」からの引用です。
(引用始め)「 この逆さまテストではベアードの予想通りの結果が出た。ベアードよると「バービーの足を持って逆さまにしたり、髪を持って振り回したりするのは平気で……問題はない。しかし、ネズミではそのようなことはしない」。ファービーでは、「逆さにして30秒くらいして、鳴き声をたてられたり、こわいと言われたりすると、罪悪感を覚えて元に戻す」。 この罪悪感の出所について、神経科学者のアントニオ・ダマシオの本に記述がある。ダマシオは苦痛を感じる2つのレベルについて説明する。第1は苦痛をともなう刺激に対する身体の反応。第2はもっと複雑な反応で、苦痛と関わる感情だ。それは身体の状態の内的な表現である。ファービーが「こわい」と言うとき、それは身体反応と感情表現の境界を越えたことを示している。ファービーを逆さまに持つのは、動物なら苦痛を感じるかもしれない行為だ。ファービーはまず動物のような悲鳴を上げるが、次にまるで人間のように「こわいよ」と言う。 人はこのような状況に置かれたとき、想像以上に動揺する。そして自分が動揺したことに動揺する。「落ち着け、落ち着け、おもちゃじゃないか」と言って、自分を安心させようとする人も少なくない。 」(引用終わり)
ある意味この全く合理的でない反応こそが人を人たらしめているのかもしれないと思えてきます。
6. まとめ
AIとの関わり方は千差万別。「情緒的関与」と「知的関与」の度合いを軸に、私たちがどんな付き合い方をしているかを整理してみると、自分の立ち位置が見えてくるかもしれません。そんなお話でした。
おまけ
ボイスモードで心のチューリングテストしてみた。