世界で一番好きなバンドのライブに行って人生で一番絶望した話
【2024.06.05 更新済み】
保身として書いておくのだけど、これは誰かを傷つけたいだとか、不幸にしたいだとか、そういう意図を孕んで書いたものでは一切ない。強い言葉を使うかもしれないし、あなたの眉根に皴を寄らせてしまうかもしれない。しかし、これはただの私の考えで、感情でしかない。決してあなたのものではない。
な~にを言うとんだお前はという話ですが、要はこれから私は「私から見た」ツアーの話をするけれど、あなたに意見を押し付けるつもりは毛頭ありませんよという私の意思表示です。これが正解なわけがないし、それであってたまるかとも思っています。あなたの意見があるのも承知ですので、これを読むことで気分を害すことも当たり前にあります。
固い文章になってしまいましたが(そしてここから先もう少しだけ固い文章が続くのですが)、「ふ~ん、そういう見方もあるのね」と肩の力を抜いて読んでください。一ファンの思考に大した価値などないので。
最後に再三言いますが、私のただの一意見です。あなたの気持ちが書いてあるわけではないしあなたの考え方をもって私の感じ方を変えられる訳でもありません。
はじめに
前提条件を共有したいのでぼかさずに書く。
また、演出やセトリについて詳しく触れるので先にライブレポートを読むことをオススメする。
https://note.com/preview/n5dbcadb922bf?prev_access_key=3f4eedccca276454afb98d8cbd60ab65
Mrs. GREEN APPLEという最強のバンドがいる。
そんな彼らが5年ぶりに行ったFCツアー(ファンクラブ会員限定のツアー)、『The White Lounge』(以下ホワンジ)に参戦してきた。
全公演を通してセトリや具体的な内容について一切のネタバレ禁止、バンドが行うライブとしては珍しい着席観覧、ドレスコードとして「白いアイテム」の着用。SNSではセトリ予想が飛び交い、情報が解禁されるたびに様々な考察であふれかえった。
「賛否両論ある」、「ファンを信じているからやる」、「今やらなければならない」、とメンバーが口にしていたのが印象に残っている。
チケットの倍率は無論とんでもなく、最速抽選からリセールまでずっと申し込みつづけた人たちが敗れるという場面を何度もXで目にした。当落日の前日に街中のゴミを拾ったことが幸いしたのか、なんとチケットがご用意された私。感動と興奮とちょっとの不安で吐きそうになりながら参戦した。
そして、絶望して帰ってきた。その日は眠れなくてベッドの中でいろんなことを考えながらひたすら沈んでいた。
これから今回のツアーに関する考えを書き綴っていくが、その前に知っていてほしいことが三点ある。
前置きとライブレポだけで長いのにまだ読ませるのかよと思った方、ごめんすぎる。本当は簡潔に書こうと思っていたのに文章化し出したら手が止まらなくて。最後に要点をまとめておくから、そこだけでも。
前提として知っておいてほしい情報
①脱退について
昨今メディアへの露出が急激に増えたMrs. GREEN APPLEだが、最近出てきた期待の大型新人というわけでは全くない。昨年度の2023年に結成10周年を、そして来年度の2025年にメジャーデビュー10周年を迎えるかなり歴の長いバンドである。
ボーカルの大森元貴さん、ギターの若井滉斗さん、キーボードの藤澤涼架さん、ドラムの山中綾華さん、ベースの髙野清宗さん(以下敬称略)で構成された五人組ロックバンドとして2020年まで走り続けてきた。
「え、三人組バンドじゃないの?」と思った皆さんはぜひ彼らの昔のライブ映像を見てほしい。今と違うベクトルでキラキラと輝くものがある。
そして、2019年12月7日から2020年2月16日まで行われた初のアリーナツアー、『EDEN no SONO』を最後のツアーとして、Mrs.GREEN APPLEは活動休止を発表、大森の総称するところの「フェーズ1完結」を迎えた。活動休止中も既存曲のMVやライブ映像の公開、大森のソロ活動が相次ぎ、供給に満ちていたのは記憶に新しい。
そんな中、2021年12月30日、Xデーが訪れる。
ドラムの山中綾華、ベースの髙野清宗の脱退発表である。
事の経緯はファンには抽象的にしか知らされていない。というか、まったくわからない。楽曲やインタビューを通して推測はできるが、それは推測の域を出ない。どこまでいっても妄想・憶測でしかないのだ。
ただわかるのは、彼らには彼らなりの苦悩があり、葛藤があり、話し合いの末にその決断が下されたのだということ。もしフェーズ2からFCに入った方がこれを見てくださっているのならFCにあるこちらのブログを読んでみてほしい。
活動復帰後にぐんと人気が増したことで違う道へ進んだふたりの存在を知らない方をよく見かけるようになった。
しかしこの脱退という出来事は、人によって大小や重さは違えど、間違いなく衝撃や影響を多くのファンにもたらした。そしてそれは今でも、フェーズ1への愛しさや懐古に形を変え、依然として残り続けている。
②フェーズ1とフェーズ2の違いについて
Mrs.GREEN APPLEは活動期間に一定の区切りが存在する。
具体的に言うと、結成当時から2020年の活動休止までの期間のことをフェーズ1、活動休止明けからをフェーズ2として呼称している。
フェーズ1とフェーズ2の間に約2年の時があり、前項に述べた通りその間にミセスは5人から3人へ構成が変化した。時間というのは常に出来事を前に進ませ続けるもので、それはミセスに関しても例外ではなかった。
フェーズ1とフェーズ2では確実に変わったものがいくつかある。フェーズ2開幕直後のSNSでも、復帰から2年ほど経った現在でも、「ミセス変わったね」という声は多々目にする機会があるが、大森はインタビューで以下のように答えている。
フェーズ2の華やかさは彼らをメディアで目にしたことのある人であったら見当がつくのではないだろうか。3人がそれぞれ、鮮やかな髪色、煌びやかなメイク、美しい衣装に身を包んで音楽を楽しんでいる。
その結果、音楽だけではなく美容情報についてのインタビューを受けたり、化粧品のメーカーとコラボをしたり、容姿の方面でも注目をされはじめている。昨年末のレコード大賞でも、大森のアイシャドウのラメがキレイすぎる、どこのメーカーのアイシャドウなのかと美容界隈でプチバズが起きていた。
メンバーの藤澤涼架は、彼の特徴のひとつでもあったマッシュカットから一変、髪を長く伸ばすようになった。衣装もフェミニンな雰囲気に合わせてメンズスカートを着用することが増えた。
若井滉斗は、フェーズ1の時は黒髪を貫いていたが(エデンの園のファイナルで黒髪に金メッシュが入っていたことにファンがどよめくくらい)、フェーズ2に入って銀髪や青髪、茶髪と多様な髪色で登場するようになった。また、大変ガタイが良くなった。過去の映像を見るとヒョロすぎて今とのギャップにビビる。ご飯をたくさん食べてほしくなる。
これは正直、言葉で説明するよりもMVを見ていただいた方が早い。
ビジュアルの華やかさが要素として加わることで、いわゆるアイドルのような売り出し方に運営の方針も傾いた。本人たちのアクリルスタンドやトレーディングカードの販売からも、見た目を売りにする方針があるのは間違いないだろう。
また、MVやライブの演出にダンスが多く取り入れられるようにもなった。活動休止中の2年間、若井と藤澤は楽器を持たずにただひたすらダンスの練習と体作りに励んでいたという。音楽や表現の幅を広げるために、と言っていたが、フェーズ2開始後の活動のイメージとして大森の頭の中にその構成があったのだろう。
ダンスが増えるに反比例して大森がギターをかき鳴らすシーンも少なくなった。ミセスはもともと、打ち込みの楽曲が多かったり、ジャズ調の楽曲を抱えていたりと「ロックバンド」という固定観念にこだわった姿勢は見せていない。だが、フェーズ2に入ってより一層その姿勢が強化されたのか、ロックをかき鳴らしたのは今のところ『延々』という楽曲くらいである。
ロックバンドというよりはステージマンとして、表現者として、より自由な方向へ色々と変化した部分があった。
しかし彼らが根底に掲げているのはやはりバンドという一面で、定期的にバンドという言葉が彼らの口からは零れ落ちる。「俺たちロックバンドじゃん?」という若井の発言も、「バンドとしての可能性にかけたい」という大森の言葉も、ミセスの中にロックバンドという軸は確実に存在しているのだと我々に諭してくれているようだ。
ボーダレスで、多面的。あとでこの話題にも再度触れるが、今のミセスを語るにはこの言葉が最適なのかもしれない。
③『Attitude』という楽曲について
フェーズ1からミセスを追っている人なら言わずもがなだと思うが、この曲はミセスの楽曲の中で最も神格化されているといっても過言ではない楽曲であると思う。
この一行詩で始まる当楽曲。Attitude=態度や姿勢、物事への向き合い方という意味も相まって、大森の音楽への向き合い方、生き方への考え方が綴られているような印象を受ける楽曲だ。冷たいようで暖かく、どこか死生観が漂うような雰囲気もある。
ライブではやらないと言われていたこの曲が初めて披露されたのは、活動休止明け一発目のライブ、『Utopia』の頭。この事実だけでも曲の重さが伝わるだろう。
本人の言葉が一番だと思うから、大森がこの楽曲について触れたインタビューなどを引用させていただく。
この曲を書き下ろした当時の写真やインタビューを見てもらえればわかると思うのだけど、この頃の大森は痩せこけ、目の下にはクマを常在させていた。誰がどう見てもわかるほどに生き急いでいた。いつか些細なことで爆発しそうな危うさが、界隈の中にもピリリとした緊迫感を生んでいたように思う。(主観でしかなく非常に申し訳ない)
そんな状態の彼が産み落とした『Attitude』という楽曲は、「ファンに曲の本質が伝わっていない」という彼の危機感が根源であり、まさしく警鐘であった。
当然、ファンは焦る。大森がここまでボロボロになってまで、我々に「(曲に込めた気持ちを)正しく伝えたい」と産み出した曲だ。こちら側の背筋も伸びるだろう。もっと誠実に曲へ向き合わなければ、という気持ちにさせられる。
当時Youtubeでこの楽曲のコメント欄のみが閉鎖されていたのも、コメントや評価による先入観や憶測をできるだけなくすことでファンの聴く姿勢や態度を試すような意図があったのではないかと考察している。
そんなファンの姿勢が徐々に伝播し、『Attitude』は神格化されていったのだ。大森が楽曲に込めた気持ちを、できるだけ解像度の高い状態で見つけるために。大森がファンへ伝えたい核を、本質を知るために。
※勘違いをしている方がいるが、大森の口からも「神格化した」という言葉が出ているのでそのような風潮が当時からあったことは事実である。気持ちの重さは違えど、ファンだけがこの曲を大切に抱えていたわけではない。
知っている方、読み飛ばしたい方へ向けた要約
なにに絶望したのか
①多様性って、こういうことなんだろうか
ミュージカルと呼ぶには技術が足りず、ライブと呼ぶには混じり物が多い。終演後、真っ先にそんな感想を抱いた。中途半端に見える。なにもかもが。
バンドとしての概念を覆すことに必死なのかもしれない。カテゴライズをされたくないからこそ多様なものに挑戦しているのかもしれない。若者に人気という冠を外そうと苦労していたのも知っている。
でも、多様性ってこういうことなんだろうか。
それって、ちゃんとした基盤があってこそ成り立つものなのではないか。いくら変動しているといってもなくしちゃいけない核はあるのではないか。
やりたいことがたくさんあるのはとてもいい。ただ、そこに核がなかったらただの「中途半端」だ。そして「多面的」であることと「すべてにおいて中途半端」であることは異なる。
全部が全部そうだったわけじゃない。美しい、ずっと見てたい、このままこの世界に浸ってたい、そう思える瞬間が何度もあった。ただ、首を傾げてしまう部分があったのも事実だった。
【追記(2024.03.26):私がFCツアーで「中途半端」と称した対象には、音響やペアダンスをしていた女性とのダンス中の微妙な距離、そしてダンスに重きを置くあまり歌が通常時よりかは疎かになっていたこと、等々が含まれていました。
しかし、今回の『音楽と人』を読んで、あくまで主役は彼らの曲であったこと、そしてダンスや演技などの演出は結局曲を際立たせるためのスパイスだったことを知り、それをすべて「中途半端」でくくってしまうのは少しそぐわないのかなと思いました。というか、私の受け取り方は一旦置いておいて、主役は曲だって思ってくれていたのなら、それに応えるべきであるなと。受け取ることのできなかったこちらの不備も間違いなくそこには存在すると私は思うので。
音響や、ペアダンスで恥ずかしがっているのか女性との間に変に空間が開くなどの演出の不完全燃焼さ、そもそもミュージカルとして公演をするには多忙からリハーサル期間が少なく元のポテンシャルより大幅に稚拙なものになっているのではないかという視点などはまだ腑に落ちていないので、多分もうちょっと引きずるんですが。読んでくださっている方も多いのでそこだけ追記しておきます。】
また、今のミセスが多面的であるからこそ、伝わらない場面が多かった。というか、今まで突き通していたものが目の前で覆されてしまって、わからないという気持ちが増大した。
創作物を見せられて「ん~、なんかよくわからなかった!」ってなるの、割とヤバい感想だと思う。伝えたいことがなんとなくわかっていて、そのうえで「なにがいいたかったのだろう」と考察するのはまだ良いとして、今回のツアーは本当にさっぱりわからなかった。ストーリーはファンの解釈を聞いてなるほどねという域まで持って行けたが、「だからなに?」 と思ってしまった。普通に私の感受性が終わっているだけかもしれない。ただ、これをやらなければ、と思った意図が未だに見えてこないのだ。そこまでして何を届けたかったのか?
今後インタビューや本人の口から語られる事柄をもって、ここに抱いているもやもやは軽減される可能性がある。だけど「補足や解説がないと伝わらない創作物って、どうなの?」という気持ちはきっとどれだけ納得しても消えないと思う。個人的な感想だが、観客にまったく伝わらないストーリーは脚本家の自慰行為でしかない。
②我儘を受け止めたい、受け止められない
「真ん中:大森元貴、端:若井と藤澤」という構図。どうしてもそれじゃなきゃダメだったのか。いつまでもひとりでいないといけないのか、あなたは。
一人と四人、いびつな五角形、常に横並びになることを目指しながらも結局は大森のワンマンバンド。それが嫌で、どうにかしたくて、もがいてきたんじゃなかったのか。大森だけじゃなく他のメンバーも。
フェーズ2になって、「二人を頼もしく思えるようになった」って、「安心して今に浸っていられる場所にミセスを作ってくれている」って、インタビューで大森が言ってくれたとき本当に嬉しかったんだ。フェーズ1の生き急いでいた大森を知っているから。それに苦しんでた周りも知っているから。
ノアのDVDでもステージ下でふたりにかけた言葉がまるで宝物みたいに見えて。ああこの数秒のために二万払ったんだ自分って本気で思ってたんだ。脱退は本当に本当に暗い出来事だったけど、もう一度あの気持ちを体験しろと言われたら絶対に無理だけど、それを経て孤独だった大森がふたりを頼れるようになったのならそれは彼にとって必要な出来事だったのかもしれないって。ようやく飲み込めそうだと思ってたんだ。それなのにここでまたぶり返すのかあ。
演出上仕方のない部分があったのだと思う。各々演じるキャラクターがいる以上、本人たちの関係値もフラットに見ないといけないだろうし。
でも、もっとやりようはあったよね。間違いなく。特に最初の登場、あんなにぬるっと入ってくることありますか。ふたりもメンバーなのに?
これはもしかしたら贔屓なのかもしれないけれど、今回のツアーで、私って藤澤のライブ上での立ち回りが大好きなんだなと改めて実感できて。それがすごく私の中で大きかった。気づかせてくれてありがとうホワンジ。
ワンマンバンド問題やら大人たちからの言葉やらで苦しかった初期、キーボードしての自分だったり、ミセスのメンバーとしての自分だったり、そういうものをすごくすごく考えて彼が切り開いたものが、「C&R」だと思っているから。『VIP』の歌詞を自分に歌ってるんじゃないかって不安になってしまうような人ですよ。それでも今ステージに立っている彼の強さや、「誰も置いていかない」って気持ちが見えて、本当に好きなんだよな、りょうちゃんのライブでの立ち振る舞い。
【追記(2024.06.05):書き方が非常に悪かったのだけど、別に個人の意見としては大森のワンマンショーだとか二人が注目されていないとかそんなことに動揺したのではなくて。ただ、以前に比べたら周りを頼れるようになった彼がそれぞれにフォーカスをあてるのではなく「たったひとりでスポットライトを浴びる」という決断を下したというのが、どうしようもなく孤独に見えてなんだか無性に悲しかったのだと思う。「まだ抱えるのか、あなたは」という風に。
リミナルスペースを表現したかったという後日談を聞くと、ここで抱いた孤独感への悲しみはあながち舞台構成の意図を大きく外れた意見ではなかったのかなと安心しました。
また、彼らをよく知らない人がこれを読んだときに誤解されそうなのですが、決して彼らは不仲ではないと長年彼らを見てきた私は感じます。仲が良いとか悪いとかそういうものではなく、ただただ彼らの動き方としてそのような体制が常であり、それを変革しようともがいていたフェーズが確かにあったということだけが事実です。】
「僕の我儘が常にチームの主電源」、「我儘が終わるまで」。そう言われ続けて、いつだってそれについていきたいって思ってきた。それは今でも変わらない。ファンとしてそれを受け止めたいし、それを楽しみに生きてもいきたい。
ミュージカルをFCツアーでやることが、ある種ひとつの我儘であったのかもしれない。信じてるって言ってくれたしね。
でも、あなたが本当にやりたいんだったら、FCなんかでやるのではなくてちゃんと全員応募可能のライブでやるべきだと思う。こういうものこそ。あなたが目指している景色、望んでいる目標、それはFC会員だけじゃなくてもっと多くの人に見てもらうべきじゃないんだろうか。うがった見方をして申し訳ないけれど今回に限ってはこちらへの信頼が妥協のように見えた。賛否両論あるとわかっているから、より自分を愛してくれそうなFCの場で決行したのではないかというふうに。多様性の話に戻るが、それもまた「中途半端」に見えてしまうんだ。
「やりたい」が自由にできる場所であってほしいと、いつだって願ってる。本当に。心から。ただそこにふたりの我儘も乗っけてほしいと願ってるだけで。だって、大森のワンマンバンドじゃないんでしょ、ミセスって。
③思い知らされた「大人になる」ということ
ここまでいろいろ言ってきたけど、結局これだと思う。
「ミセスに絶望した」というよりは、「自分に絶望した」。多分。
フェーズ1からフェーズ2になって、二年がたって、その中でミセスもファンも同じように年を重ねて、大森のスタンスが変わって。それなのに私はちっとも変わっていないことが、どうしようもなく悲しいし、苦しい。
同じ視線で、気持ちで、走っているとおもっていた人が、もう違うものを見ていると思い知らされるようで。(すごくおこがましい前提だが)
『Attitude』の一連もあって、ミセスが、大森が、曲を通して伝えたいと願っていること、100%で理解することは難しくともできるだけ取りこぼさないように考えてきたつもりだったんだ。それだけ真剣に曲と向き合いたいと望んできたし、それを望まれているとも思っていたから。
『君を知らない』、『Attitude』、『PARTY』、等々。
軒並み恋愛ソングに改変されてダンスと共に歌われた瞬間に、「ああマジか~~」って頭を抱えてしまった。フェーズ1からの諸々が頭をよぎって、「よりによってなんでその曲たちなんだろう」って思ってしまった。
わかってる、この絶望って見る人が見れば俗にいう「フェーズ1の亡霊」で、今のミセスにはお門違いなんだ。
フェーズ2に変わることで大森のマインドには確実に変化が生じた。「諦められるようになってきたような」と『Feeling』で歌っているように、反抗という武器を捨て、諦めという盾を手にした大人へ成長した。迫りくる絶望を「それも仕方のないことだ」と包み込めるようになったし、仕方のないことだからこそ楽しもう・踊っていよう・そんな世界も素晴らしい、と柔らかく受け止められるようになった。というか、どうしても成長や変化を迫られる状況だったのだと思う。思う、としか言えないけれど。
大森のマインドが変わると、当然曲へのスタンスも変わる。大森が曲に込めた想い=正解、として、「正解を一字一句正しく伝えたい」と思っていたのが「正解ってひとつじゃないよね、別解があったっていいよね」というスタンスへ変化した。
そして今回のツアーでは別解のうちのひとつを見せられたにすぎない。今の彼らは多面的だから。
頭ではしっかり理解しているんだよ。でも、そのうえで縋ってしまうよな。今までの歴史は? 曲に対して考えてきたものは? 積み上げてきた思考は? 大事に持っていたものを、いきなりそれをくれた張本人たちから「もうそれじゃなくてもいいんだよ」って言われても、それってそんなにたやすいことじゃない。抱えてきた年月が年月だからさ。
捉え方様々でいいって言われたってあなたの言葉を欲してあなたの言葉を考えて生きてきたんだ。急に手を離されたら必死になって追いかけてしまうよ、それは。ずっと煮詰めてきた解釈に「これも追加で!」って恋愛を乗っけられても、拒んでしまうよ。曲が曲だもの。(『Just a friend』は元の解釈のままミュージカル化されたので大絶賛で受け入れられたのだと思う)
彼らの曲なんだから彼らの自由にさせるべきだという意見を今回すごく多く目にして、いや〜〜〜ほんとそうだよな!!!! という気持ちでいっぱい。そうなんだよね、多分そんなの皆わかってるんだよ。でも、ごめん、まだちょっと時間がかかりそう。今までの年月とか、溜めてきた思考が、私の足枷になってるみたい。『Attitude』を軽快に踊りながら歌えるようになった大森を、「うれしい!」と思えるほど、大人になれていないんだ、まだ。そこまで成長できてないんだ、私は。
こんなふうに「でも」「だって」を並べてしまう時点で、どこまでも私って子どもなんだと思う。そして私のこの執着は、今のミセスが提供したいエンターテイメントをNot For Me なコンテンツへと自ら作り上げてしまっている。それが、今回のツアーについてを考え抜いた先に私がたどり着いた絶望だった。ホワンジが終わって「なんだこのライブ!! なにを考えているんだ!!」と憤ってたのに、蓋を開けてみれば自分の柔軟性を欠く思考にこそ大きな非があった。あ~あ。
絶望を愛せるようになった大森がつくる音楽も今の私を変わらず救ってくれてる。どん底まで沈んだとしても、浮上する未来が明確に視野にあるような、そんなフェーズ2が大好きだ。
でもたまに、たまに苦しくなる。私はまだ絶望を絶望として捉えてしまうし、悲しいときはとことん悲しくてそんな世界を憎んでしまうし、苦しい状況で踊れるような余裕もない。いろんな人間がいる世界を美しいって思いたくても、どこかで必ず汚いなと思ってしまうから。
これが、「わかりあえない」とか「どうにもできない」状況を諦められるようになった大森と、まだまだ世界に反抗していたいフェーズ1を懐古してしまう私との差なんだと思う。
でもこの苦しみはきっと当たり前のことなんだ。世界が許せなくて、周りが嫌で、なんで自分はこうしたいのに皆わかってくれないんだ! ってギャンギャン騒いで自己嫌悪して、孤独でどうしようもなく沈んでる大森の歌詞を、ずっと好いてたんだもの。待ってたんだもの。共感してたんだもの。惹かれたのは彼らのそういう部分で、それだけは譲れないから。
インスタライブで「大人になる段階で苦しんだことはありますか?」的な質問に「もうどうでもよくなっちゃった」と答えていたのも心臓に来た。あ、そっか。もうどうでもいいんだ。そんな場所にもう彼はいないんだ、って。
考えが大人になって、妥協を知って、反抗を諦めていく。正しい成長だと思う。よかったな、とも思う。正直。だって生きづらいもん。100%でわかりあうなんて不可能なものを信じ続けるのも、許せないものに出力最大でぶつかっていくのも。
でも、いつまでも諦めないでほしかったんだよな。足掻いていてほしかったし、足掻いてくれると思ってた。勝手に。100%で理解してくれることをファンに期待し続けてほしかった。わからないが許される状況を自ら作り出さないでほしかった。
フェーズ1のことを大森が「僕の青春」って称してるの、本当に好きなんだけど、いつまでも青春でいてほしかったんだよ。
このツアーを通して気づいたけどやっぱり自分って亡霊でした。というか、この気持ちすべてがエゴでしかなくてもう嫌んなっちゃうね。結局どこにもいかないでほしいっていう自己中心的な考えでした。彼らは中身こそは成長したとしても、変わらずに個に寄り添ってくれているのにね。
もちろん今のミセスも大好きで、ありえないほど救われてるんだけど。でも、やっぱりだめだ。だって活動休止期間中もフェーズ1の曲を聴いてフェーズ1の彼らを待ってたんだから。そりゃ、無理だよね。
とはいえやっぱり好きなんだ
もうね、だめです。ホワンジの次の日、泣きはらした顔で朝の支度をしようとして何も考えずに『HeLLo』をかけた瞬間、悟ったよね。
なんでこんな好きなんだ? 涙が出るくらい好きになったアーティストなんて初めてで、もうどうしたらいいかわかんないよ。感情がごちゃごちゃでキレそう。でもそれ以上に幸せで笑えてくる。
こんなにぐちぐち言うなら離れろよ、界隈の邪魔だよって、自分自身よくわかってるしやめるべきなんだよな。言ってることがDV彼氏と付き合ってるダメ女だもん(ミセスがDV彼氏と言いたいわけではないです)。そりゃ別れるべきだよ。でも、人間そんなにシンプルだったら苦労してないよな。すきだからこそ言いたくなった節もあるし。
FCも嗚咽しながら年会費払いました。一年は継続します。
当初はエッセイと称してnoteにのみ投げていた文章ですが、さまざまな方がXに転載してくださり、拡散してくださり、想定していたよりもかなり多くの方々に読んでいただけたようで、とってもうれしく&恥ずかしく思っています。
ネタバレ解禁前に時間に追われて感情任せに書きなぐった部分があるので、さぞかし読みづらかったでしょう。あなたが否派だとか賛派だとか、古参だとか新規だとか、そういうのは心底どうでもよくて、私のおもたい言葉をここまで受け止めてくださったことにただただ感謝。
「私の考えでしかない」と最初に言った通り、押し付けるつもりは毛頭ありませんし、これが正解だとも思っていません。当たり前ですが、彼らの全てを理解できている訳でもないです。なので、各自必要な部分だけ抽出して受け取ってもらえたらなと思います。人には人の意見があるのが当然なので。ただ、千差万別いろとりどりの意見がある中で、あなたが私に少しでも共通点を感じてくださったなら、とってもうれしい。出会えてよかったです、最近また冷えてますし、暖かくして寝てね。
コメントくださった方々、どうやら個別でお返事が返せないということなのでここでのコメントで失礼させていただくのですが、とにかくうれしいありがとうの一言に尽きます。別に代弁をしたかったわけではないのだけど、批判的な意見が出てきた裏側のひとつを覗いてくださったことが、わかろうとしてくださったことがありがたい。そしてそのうえで感想を書こう! と思ってくださったことがもう愛しいです。小指をタンスにぶつけるとか爪をどっかにひっかけるとかがない幸せな人生を送れますように。