『眼の探求』 辺見庸

はじめに(抜粋)
 私は「解像」ということを考えた。私たちの周りの、一見して心安くも見える風景の解像、である。心安く見えながら、視線を針の先のようにとがらせれば、また視線と想像力の射程をぐいと伸ばせれば、不景気とはいえまだ美し余の風景の深みには、怪しく不気味にうごうごとするものがおぼろげながら見えてくる。しかも、そのうごうごとする謎めいたものは、近年、人知れず増殖に増殖をつづけているようだ。それを。年とともの衰弱はしているけれど、わが両眼に探索させ、知覚させ、思念させて、持てるあらゆる言葉を用いて、私なりになんとか絵解きしてみたかったということだ。

 そこで問題となるのは解像度である。水平解像度にせよ、垂直解像度にせよ、言葉の走査線の本数を大いに増やす必要を私は感じた。さらには、言葉の走査線の方向と質を変えなければ実相はとてもとらえきれないと思った。とするなら、ジャンルや形式にこだわっても解像の役には立たないということになる。それらを意識することは解像の作業を不自由なものにし、むしろ像を歪めてしまう。一切の形式を無視し、一切の形式を動員せよ。解像すべき対象のほうが従来の形式などちうに無視してうごめき肥大しているのだから。政治的マクロを、いうところの文芸的ミクロの視点から難じてなにわかるかろう。日本と米国軍事的合意の不合理を、言葉の問題から論じてどんな不都合があろう。そういい聞かせて、私は書いた。本書の性質については分類御無用ですと口ごもりたくなるのはそのゆえんなのである。その結果として解像度の具合には、しかし、自信はない。とにもかくにも、読者の判断におまかせするにほかないのだ。

 さて、つたないなりに私が解像しようとしたことどもは、ル・グレジオふうにただの名詞で羅列するなら次のようになるだろう。

絞首刑、音、『ショア』、闇、訪客、etc
.(本書にはもっとたくさんの名詞が羅列されている)

 ああ、きりがない。これは単に。光のかげんで水面に浮かんでは消える模様のようなもの。木洩れ陽に泳ぐ樹肌の斑にようなもの。想像をたくましくすれば、模様をつなぎ、斑を並べるなりして、なにがしか輪郭は立ち上がるのかもしれないが、妄想は妄想、憶測は憶測、表面ははさやかではない奥の奥の伏流の音に耳を傾けるなら、やはり本文をお読みいただくしかない。もしも、私どもの身体の内に外にも刻々なりかたちを変えてめぐりはびこる鵺というものの、あの恥知らずな実相、あの生臭さ、あのいやらしい声音の一端に読者がふれ、おお嫌だ嫌だとため息の一回、二回なりともつくようなことがあるならば、本書の思いはひとまず達せられたこととなる。でなければ、私としては視力矯正のために旅にでもでることになるだろう、再び。


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