東京藝大卒展に行った
すごい
かわいい
うつくしい
へぇ
なるほど
どうなってんだ
むずかしいな
おもしろい
偉業すぎる
好きだなぁ
以上の語彙力のなさを爆裂に口に出した
11時から16時まで、都美術館の方にも行く予定が構内のみで1日が終わってしまった。
体感時間は無限、部屋に入るごとに時間の流れが異なるから、精神と時の部屋だった。
藝大は時間があっという間にすぎて、終わって、閉じ込められるんだな。
猫が街からいなくなり、違う物体を空目してしまうあの現象を小説にして猫に見えるものをとろとろにした作品が面白かった。
ブラウン管テレビが展示に使われることが多かった。古い家電からノスタルジーやアート用品になった2023年、家で使っていたブラウン管、お前はこんなにお洒落に存在できる奴だったのかと、ある意味で彼らを人間に使われる存在だと見下していた自分をみつけた。懐かしい気持ちになった。時間がまた分からなくなった。いろんな時代のいろんな私が戻ったり進んだりする。
4年間、もしくはさらに数年を足して学生さん方は自分や社会や環境や内面外見に向き合って活きてきたんだと、自分の4年間と比べてしまう。
大きなキャンバスに緻密に描かれた作品や、立体物、レポート、どれもこれも学生が学生自身と向き合ったんだなと思ったりした。
仕事は子ども関係。彼らの濁った思いや悩み、苦しみが出る作品もあった。その思いを物理的な表現し、作品でも言葉でも表出する力強さがとてもよかった。
コロナが学生生活に強く影響を及ぼした世代であろう彼らの熱量がかっこよかった。
座っている作者に思いを伝えたかった。声かけていいのかななんて遠慮してしまった。音のなる装置が展示されていて、これが家にあれば仕事で疲れ帰って無限に聴いたら落ち着きそうだった。あの装置を我が家に。
印象として、自分探しを自分でしないといけないの大変だなと感じた。
親や大人から子どもの頃に怒られたり叱られたりする育児や教育から怒らないにシフトしてもう何年も経つ。大人に抑圧されて私は私だと反抗する反抗期とか、ない方もいるのかもしれないなと思った。自分がどんな存在でどんなことを考えてどうやって共存し生きていくのかを割と1人で悩んでいるような。または同世代の中で悩んでいるような。そんな印象もあった。刺々しい作品も少なかった、死すらも生だった印象。パーテーションのように隔てられるのかもしれないな。全部ごたまぜに「自分」ではなくて、「分けて考える」のが上手い世代なんだなと思った。
ジェネレーションだな
そして感化されて私もアウトプットしよ
ということでnote始めました
都美術館の方もみたかった!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?