ものをよく見て、いかに正確に描くかと対をなして、自分の美意識で要所に何が欠けていて、美を注ぎこむと生まれる可能性に期待をしている。 細かさに丁寧を纏うことで形作られるものは、絵を集中して見る人の目に必ず止まる。 そんなことをひょんなことから思い出して作品の制作に当たる。 人は手にした感覚をひょんなことから失くしてしまうこともあるんだな。 井上陽水の夢の中への気分。 きっとご機嫌に生きた方が忘れないし、気持ちよく使っていけるんだろうな、スキルを。 などと思ったりした
おいしい牛乳が、おいしい
人の原始の欲求に古いというカテゴライズはあるのだろうか。 音楽のクラシックも時代がクラシックであってもその技法は永年通じて人々の心を打つ。 描くということに関しての可能性も無限にある。 発想力はどこまでも広がっていく。 アートへの環境テロが良くないパフォーマンスであると考えるのは美術品を保全してきた人の熱意を踏み躙るからなんだろう。 敬意ある人はいつの時代も過去の偉人の技法を敬意を持って進化を呼び起こし、今を生きる人に新しさを提示する。 枯れた技術の水平思考である
田中敦子さんが亡くなった。その昔描いたお店のファンアートを差し上げた店長さんが、一緒に働いたことがあったらしい。 つながることは不思議なことだなと思う。 役者は時を生きている。きっと絵描きもそうなんだろう。 この時にしか生きられない日々に、何を残していけるのか。 そういえば昔卒制でそんな文章を書いた気がする。 とはいえ自分も何もない人間だ。 残せるものだってそんなないだろう。 それでもそれでもとみっともなく生きる恥多き日々に感じたことに色をつけて描き、生きる。
不思議な夢を見た。駅近で、地下への隠れ家のような入り口を抜けて、日が射す和室と広い温泉が広がっている。 その部屋は電車に搭載可能で、どこへでも行ける。 起きて思ったのは疲れているなということだけ。 部屋には誰もいなかった。 誰もいないのに部屋を動かすことに楽しさとかあるだろうか、などと考えたりした。 そうこうしてる間にも命の時間は過ぎていく。 昔から自分の才能を信じきるのが苦手だ。 何もかもが信じられなくなった結果が今なら、折れても立って笑う。 最後はそうあり
とあるお宅の壁でアゲハ蝶が止まっていて、自転車を漕いで離れようとしたら、自分の方向に飛んできて道路に裏返しになってもがいていた。 かわいそうなので日影にそっと向きをなおして置いてあげたものの、草木に戻してあげれば良かったかもしれないと一日罪悪感にさいなまれた。 暑さと湿度がピークをむかえ、自分の体温調節も時々おかしくなりそうになる。 いざSNSを止めてみると、色々吸い込みすぎてたかもしれないと気づかされたりもする。 信じ、愛し、期待するのは一人の勝手な想いではあるもの
復刻1970三ツ矢サイダーが美味しい
朝からコンペの準備など、すべきことをしてきて冷やしていた黒ホッピーをそのまま飲む。 ノンアルコールビールよりもおいしいな。 フジ子・ヘミングの憂愁のノクターンが今日はとても心に合う。 こういった感覚は不思議な感覚だなと思う。 その心情によりハマりこむ音楽のピースはある。 やるべきことをやろうと駅への道を歩いていたら、37年ぶりくらいに玉虫が飛んできて止まるのを見た。 美しい虫だなとあらためて見入ってしまった。 しかしながら触れたいなと子どもの頃のようには思わなか
自分の上位入選の作品を見るために一人上野へ。 本当はキユさんが一緒に来てくれる予定だったが、色々あって流れた。 見ている途中で連絡が入る。 イスでしばらく呆然としていた。 途中またフレンズに寄り、思い出のスーファミソフト奇々怪界謎の黒マントを最後の思い出にと購入した。 家に帰りプレイするも難しい、やめた。 心が良くない方向に行ってしまう気がしたので、自発的に2週間SNSから離れることにした。 フォロワーさんとささいなコメントできないのは寂しいけど、ちょっと色々あ
人が離れていくということはなかなか苦しいものがあるなと感じている。 情感の行き場がないのだ。 金魚と烏骨鶏の絵は人との繋がりの実感が苦しい心境の自信を失った状態で描いた。 前2作とは全く違う感覚の絵になっている。 心のあり方というのは筆を変えるんだなと思っている。 落ち込んでるいる日はスペースで練習する泥男さんのアコーディオンの音色が優しい。 その後、ロリマスくんとただなんとなくおしゃべりをしていた。 何気ない夜にちょっとだけ感謝しつつ、一人で向かう明日の展示に
総じて無理をしていると社会を通して自分を見ているものの、何とかやれてきてしまうからこそ、抜けきれずにいる。 年々世の中が厳しくなっていくのを見て、政府が考えうる方向をイメージするとなかなかかきつい未来が待っているのが見える。 自分しかできないことなんて世の中にはなかなかないのに、自分しかできないことが求めてもらえる自信が折れる。 思えばずっと安心できる居場所を欲した人生、どう答えを出していったら満たされるのだろうか。 Roastはわりと自分の穴をついていた。 自分の
ひどい暑さの中を自転車漕ぎながら、こちらが熱にやられないように、何とか仕事している。 昨年より体感では暑い。 特に湿度も高いと熱が外に逃げていかずになおさらバテてしまう。 暑さで頭もショートしたのか、全然働かなくなり参ってしまう。 ポカリスエット、アクエリアス、グリーンダカラがとてもおいしく感じてしまう。 脱水だ。 思えばコロナ禍でキリキリマイで働き、コロナ後のノルマアップの渦中で今も必死な中、帰宅3時間と休日を利用して、もろもろ描いた日々。 結果が出なくても必
コンペで初めて選外となった。 今までがとても順調すぎたのもある。 4/5は選外となる難しいコンペだった。 審査員の方が好む方向性と自分の個性のミスマッチも感じてはいた。 好まれる傾向というものは薄々感じてはいるけれど、そこに寄せるかは自分とのせめぎ合いになる。 寄せなくてもバチっと合うことはあった。 ジェッソ後のやすりがけはあらためて大切だなあと思いながら。 しかしながら今回の絵にいれこむことができた熱は、どこかで誰かに見せた時にきっと感じとってもらえるだろうと
日本の自然を描く展は自然だけが描かれてるわけではなく、自由部門もあり、かつ世界の風物を全国の方から集められていて、とても見ていて色んな感覚的な発見があった。 2日連続で足を運んだ価値を感じることができた。 絵を描いていくと、ついつい上手い下手かでものを見がちになる。 だけれどまた絵って心いっぱいに感じとったものを誰かに見せるために一生懸命それを表現するものなんだなと気づかされる。 図録の中の自分の絵が誰かの家の中で残り続けるのはありがたいなと思う。
焼けのはらに咲く、一輪の花は美しい。 そんな言葉を友だちにかけてもらった。 記憶に残したい言葉になった。 本日は学びの目的を兼ねて、日本の自然を描く展の1期最終日へ。 思った以上に描くということへの意識が刺激されて、描きたいという気持ちが強く湧いた。 帰りに秋葉原の24年行きつけの中古ゲームショップに足を運んだら、8月いっぱいで閉店の貼り紙が、昔殺傷事件があったあの日もあの店に行きたいなと思い寸前で辞めたこと、友だちを連れてMOTHERのサントラを買い、ギミック!を
5年ぶりに新浦安の祖母が眠るお墓へ。 今年春に優秀賞を純展でいただいた絵をかついで、しかしながら額入りの絵は中々重く、バスもなかなか見つからず、3キロ近く炎天下に絵をかついで歩くことになった。 ゴルゴダの丘のキリストのようにって、そんな聖人ではないんだが。 着くまで雨は降らず、着いて祖母に声かけたら一瞬だけ小雨が降ってきた。 暑い中歩いてきた自分を気遣ってくれたのだろうか。 祖母はそういう人だったな。 宝子と僕を呼んでくれた祖母だが、自分の宝は自分で作らなくちゃね