【徳川家康が語る】「楠公さん」への思い
Akiです。お疲れさまです。
信じるか信じないかは、お任せします。
夢物語として読んでいただいても構いません。
最近は映画やメディアなどで徳川家康公のお名前を拝見することが多いですね。
ここでは家康公のことを 殿 と呼ばせていただきます。
2024年9月21日に、湊川神社を遠隔参拝させていただきました(↓)
楠木正成公は『楠公さん』と親しまれていますが、楠公さんのことを調べているうちに、殿も楠公さんを崇めておられていたことを知りました。
遠隔参拝から5日後の9月26日、急に殿の声が聞こえてきました。
殿は以前の記事でも、家臣の意見を採用するか決めるときは『家臣の目を見て判断していた』と話されていました(↓)
殿に質問しました。
「そもそも、殿のお姿を拝見するところに行き着くまでが一苦労ですよね?」
このSNS時代では、顔を合わせずに意見を述べることが当たり前のようになってきました。
それが元でトラブルが発生することもありますが、もう一つ質問してみました。
「恐れ入りますが、殿。今の時代は顔を合わせないで意見を述べる機会が増えてきています。もちろん、意見を述べるかどうかは自由ですが…」
「…難しい気がします」
SNSがきっかけで、実際に会うところまで発展するのは、当の本人次第になりますね。
今こうして、noteでたくさんの記事を読んでいると、言葉のチョイスや行間などから、クリエイターさんの人柄とか雰囲気が何となく読み取れるようになった気がします。
これも『察する』に繋がるのかな…。
楠公さんが仰っていた『魂の奥底にある武器をかざす』ことも、殿が仰っていた『志を見極める術』も、一人一人のことでありながら、この国を支えるために大切な要素なのでしょう。