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【徳川家康が語る】「楠公さん」への思い

Akiです。お疲れさまです。

信じるか信じないかは、お任せします。
夢物語として読んでいただいても構いません。
 

最近は映画やメディアなどで徳川家康公のお名前を拝見することが多いですね。

ここでは家康公のことを 殿 と呼ばせていただきます。

 
2024年9月21日に、湊川神社を遠隔参拝させていただきました(↓)

楠木正成公は『楠公なんこうさん』と親しまれていますが、楠公さんのことを調べているうちに、殿も楠公さんを崇めておられていたことを知りました。

遠隔参拝から5日後の9月26日、急に殿の声が聞こえてきました。

そなたよ、よくやった!
わしはあのお方(楠木正成公)を本当に尊敬しておる
どうしたら、あのお方に近づけられるのか…

この国には時代を超えて
素晴らしいお方がたくさんおる!

出自しゅっじが全てではない
その志が全てである

わしもあのお方を見習い、周りについてもらった
周りを固めるためにも
わしの時代にも必要だった
その志が全てであった

だからこそ、その志が本物かどうかを見破る術を
わしなりに磨く必要があった

周りが言うから味方につけたわけではない
欺く者もたくさんおった

わしも命をかけて戦い
命をかけてついてくる者たちを守った

ついてくる者たちも
わしに命をかけているからだ
これは生涯変わらぬこと

さて、今を生きる者たちは、どうなのか?

まさか「我が良ければ…」とは
思ってなかろうな

懐を広くさせたいならば
自ずと集まる者たちの目を見よ

 
殿は以前の記事でも、家臣の意見を採用するか決めるときは『家臣の目を見て判断していた』と話されていました(↓)

殿に質問しました。
 
「そもそも、殿のお姿を拝見するところに行き着くまでが一苦労ですよね?」

まさに わしの目の前に来るまで
多くの難関があるだろう

だからこそ、その者の覚悟を見極める関門となり
そこを潜り抜けられるということが
覚悟の証となった

まあ、今を生きる者たちは
たとえ些細なことであっても
しかと受け止める気概があれば
この先も転んでも立ち上がってゆくであろう

わしはそう見ておる では、また話そう

 
このSNS時代では、顔を合わせずに意見を述べることが当たり前のようになってきました。
 
それが元でトラブルが発生することもありますが、もう一つ質問してみました。
 
「恐れ入りますが、殿。今の時代は顔を合わせないで意見を述べる機会が増えてきています。もちろん、意見を述べるかどうかは自由ですが…」

必ず顔を合わせなさい
わしも必ず面をあげるようにさせた

そして、必ず「目」を見る機会を作ること
さすれば、その者の心意気が本物かどうかを
見破ることができる

それができぬならば、まず己を鍛えることだ
それがわしのやり方、この国のやり方じゃ

目も顔も見せぬ者は信用ならん
しかし、堂々と見せてくるやつらも信用ならん
何か企みを持っているからだ

意気揚々としておる訳を探るには
やはり目を見るにこしたことはない

目には不思議な力が宿っているように思う
心の内側、魂の窓なのだろうか
そこから放つ雰囲気を察しとれ

「…難しい気がします」

そんなことはなかろう!

この国の者なら『察する』ことが
できるのだから

さて、わしの話はこのくらいでよかろう
楠公さんの言葉を大事にしなさい

SNSがきっかけで、実際に会うところまで発展するのは、当の本人次第になりますね。

今こうして、noteでたくさんの記事を読んでいると、言葉のチョイスや行間などから、クリエイターさんの人柄とか雰囲気が何となく読み取れるようになった気がします。
 
これも『察する』に繋がるのかな…。 
 
 
楠公さんが仰っていた『魂の奥底にある武器をかざす』ことも、殿が仰っていた『志を見極める術』も、一人一人のことでありながら、この国を支えるために大切な要素なのでしょう。





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