葉っぱだって語っている
想いについて
そこにあるから撮った(take)だけではなく、撮影者の想いを入れるとその写真は(make)になる。
写真技術を磨くのは結構。最低限の特性を学ぶことは必要。でもそれだけで想いのこもった写真は創れない。
好きなものを撮る。好きな写真家の写真を真似る。それはいいこと。だけど、最終的には、創作すること、オリジナリティーを表現すること。
例えば今日は、「葉っぱ」に焦点を合わせてみる。雑多な雑草かもしれない。でも、その表情を観察して、それを自分に置き換えると、何か語っているような気がする。
おいらは虫に食われている。いままで太陽をいっぱい浴びて、ここまで成長したから、食われている。「虫君旨いか? 食われなくても、いつか枯れてしまう。だったら、君たちの栄養となってみよう。それでおいらの役目があったというもんだ」と語っているようだった。
「僕は君をカッコイイと思ったよ」「だから君をクローズアップしたんだ」
「やあ、ありがとう!」「こんなにいっぱいある中から僕を選んでくれたんだね!」そんな心の語らいがあったんだ。
「恋って何?」「恋は純粋に人やモノを好きになるってことかな…」「でも君、シタゴコロあり過ぎじゃない?」「へへへ 鼻の下じゃなくてハートの下が伸びすぎちゃったかな…」(ちょっとお遊び)
旅立った後の抜け殻。きっと今ごろは大空を舞っていることだろう。「僕が生きてきたから跡があるんだ」
高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る 道は僕のふみしだいて來た足あとだ…」道程から。
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