戦没した大伯父の最期を追う②
グラティデュード作戦 ヒ86船団の悲劇(前編)
大伯父は昭和20年1月12日南シナ海で戦死したと位牌には記されていた。祖母の語っていた「乗っていた軍艦が沈没」という言葉を思い出した私は、この日に南シナ海で沈没した軍艦について調べる事にした。
昭和20年1月12日南シナ海とその付近で沈没した艦艇
巡洋艦 香椎
海防艦 千振
第17号海防艦
第19号海防艦
第23号海防艦
第35号海防艦
第43号海防艦
第51号海防艦
第103号哨戒艇
第31号駆潜艇
第43号駆潜艇
第101号掃海艇
第131号輸送艦
第140号輸送艦
第149号輸送艦
調べた結果、予想以上にも多くの艦艇が撃沈されていた。
何故ここまで被害が出たのか?
それはこの時期に連合国軍が「グラティテュード作戦」を開始していたからである。
グラティテュード作戦
日本の公刊戦史である戦史叢書の「海上護衛戦」によると連合国軍はレイテ島、ルソン島など比島方面作戦で相応の損害を被りながらも日本軍を撃破した。
しかし、米第三艦隊を指揮するハルゼー大将には懸念があった。
それはカムラン湾に停泊していた日本海軍の第二遊撃部隊の事である。
戦艦「伊勢」「日向」などの主力艦を有していた部隊が連合国軍の目と鼻の先に存在している事は連合国軍としてはあまり嬉しい事ではない。
そこで航空攻撃をもって日本艦隊を撃破しようと行われたのが「グラティテュード作戦」である。
連合国軍の誤算
この作戦には米第38任務部隊の艦載機が南シナ海の日本艦船攻撃の為に出撃した。その第一目標はカムラン湾に停泊している日本海軍第二遊撃部隊である。
しかし、前年12月から度重なる敵偵察機の飛来を確認していた第五艦隊司令長官志摩清英中将は連合国軍の空襲が行われる可能性が高いと判断して12月31日には艦艇をリンガ泊地やシンガポールに回航させていた。
しかし連合国軍は日本艦隊の行動に気づかず、カムラン湾などに日本艦隊主力が停泊しているものと判断し作戦を決行した。
この作戦により1番被害を受けたのがヒ86船団の輸送船と船団護衛に従事していた第101戦隊の艦艇である。
第101戦隊
昭和19年11月15日渋谷紫郎少将を司令官として第101戦隊が編成された。
部隊は海上護衛総司令部に編入された。
その戦力は下記の通りである。
旗艦:巡洋艦「香椎」
海防艦「対馬」「大東」「鵜来」
第23号、第27号、第51号各海防艦
第101戦隊最初の任務はヒ85船団の護衛であった。
当初のヒ85船団はタンカーのせりあ丸と神佑丸の2隻から成る船団であり、途中まで共に航行する船団である陸軍貨物船や陸軍空母「神州丸」から成るモタ38船団よりも数は少なかった。
船団は昭和19年12月19日門司港を出発した。
船団護衛には第101戦隊ではなく第一海上護衛隊直属の第112号海防艦も従事していた。
また「対馬」は船団から少し遅れて佐世保を出発し、後に追いついている。
船団は敵潜水艦を警戒して仁川沖を北上、中国沿岸部を経由して12月25日14時40分高雄に入港した。
ここでモタ38船団は第101戦隊が護衛するヒ85船団と別れてフィリピンに向かった。モタ38船団の貨物船には第19師団の将兵や弾薬が積み込まれており、これは米軍のリンガエン湾が予想されたので第14方面軍を増強する必要があると大本営が判断したものであった。
ヒ85船団は高雄にて当初の編成の6倍のタンカー11隻を新たに船団に加えた。
入港から2日後の27日10時に101戦隊は13隻の輸送船を率いてシンガポールに向け出発した。出発翌日には輸送船帝北丸が海南島にて鉄鉱石を積み込むため船団から離脱。これには「対馬」が同行した。
船団は高雄に至るまでと同様に敵潜水艦との接敵を避ける為に中国沿岸部や浅海を進み、年が明けて昭和20年1月4日仏印のサンジャックに投錨した。
ヒ86船団
ヒ86船団はタンカー4隻、貨物船6隻から成る大船団であった。
ヒ86船団の輸送船はシンガポールに停泊していた輸送船から編成され、12月30日に物資や油の積み込みを終えて、護衛艦をつけず輸送船のみでシンガポールを出発した。
そして1月4日サンジャックに入港し、門司港に向かうまで護衛を担当する部隊を待っていたところをヒ85船団と共に護衛任務に従事していた101戦隊が入港して来たのだ。
今回の護衛任務では第101戦隊はサンジャックにてヒ85船団の護衛を終えて内地に帰還する予定であり、その帰路でヒ86船団を護衛する事になった。
1月6日、「香椎」の後部甲板にて司令官の渋谷少将は部下を集めて航海についての研究を行っていた。この会議にはシンガポール、サイゴンに出張に来ていた海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐も同席しており、会議の最中に一通の電文が届けられた。
電文の内容は「米国の大輸送船団が今、ルソン島西岸リンガエン湾に向かっている」というものであった。
電文の内容を見た渋谷少将から意見を求められた大井参謀は「今に第一海上護衛艦隊から指令が来ると思いますが、早く北上した方がよさそうですね」と答えた。
渋谷司令官の腹は決まった。
参考文献
戦史叢書第046巻 海上護衛戦
木俣滋郎 日本軽巡戦史
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