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不登校の私だからわかる、今すぐあなたの問題を解決する方法3選!?


はじめに

デカルトの「方法序説」にて、問題を解決するに当たって如何なる手順で思考すればよいかの3つの規則が示されています。
1.解くべき問題を分割する
2.分割したそれらを、単純なものから複雑なものへと論理だてて考える
3.見落としが無いように全体を見渡す

うん、その通り。やっぱそうか。デカルトさんもそう思いますか。いや、なんとなくそうなのはわかるんだけど、当たり前過ぎるっていうか…。

そう言われましても、解決なんてできないのが現状ですよね。

現状の論点を整理してみましょう。例えば……

・職場の人間関係が最悪、助けてほしい。マヂムリ
・全然課題が終わらなくてパニック。モウイヤ
・試験の問題が全然わからない。オワタ など

これらの悩みには全て、目の前の問題を「解決」しようとしていることに共通点を見出せます。これに対して私なりにアンサーを出すとすれば、それは

「解決より改善」
「切り捨てる勇気」
「成長はとらえ方次第」

の3つが挙げられます。

では早速これらについて掘り下げていきましょう。

本題

解決より改善

開始早々にタイトルを裏切ることになってしまいますが、
なぜ「問題を解決してはいけないのか」について私の持論を述べます。

まず、「真の解決」って相当な時間を消費するんですよね。

ただでさえ山積みの問題を前にして右往左往しているだけでは生産性がない。試験問題で分からない問題に必死に食らいつくと馬鹿を見るのと同じです。

あと、解決した気になると絶対見落としに気づけないんです。

デカルトさんは「最後にミスがないかチェックしてみよう!」と仰っていましたが、実際我ら凡人がそのミスに気づけるでしょうか。あんなに自信のあった数学の問題、✕になって返却されてきましたよね。結局「解決した気になって見直しをしないからミスが生まれたりするわけです。」

加えて、現代人って必然的に完璧主義者になってしまいがちなんです。

残念なことに我々は教育の段階で「解決することが正義」だと洗脳されてしまっている事実は否定できません。試験の問題にはいつでも「解きなさい」の文言。返却された解答用紙には〇か✕しか書いてない。大人たちが必死になって子供に「問題を解決させようとしている証拠」です。

そんな完璧主義者が「あれもこれも解決しなくちゃ」と考えると、それはパンクするに決まっています。しかも、それがミスを頻出させる。

ですが、ここで視点を変えてみてください。
「端から解決なんてできないんじゃないの」と。

そもそも容易く解決なんてできません。人生のある限り、課題は永遠に降ってきますよね。数多の課題を抱えて「じゃあ何をもって解決と呼べばいいの?」と言いたくなりますよね。

ここで「改善を意識することのメリット」を紹介しましょう。
実は「改善」には二つの相反する面白い性質があります。

一つ目。問題に最後まで真剣に取り組める
改善の姿勢には終着点がありません。常に「これでよかったんだろうか」「もっと良い方法はないだろうか」と反芻して何度も思考できますし、真の善を探求できます。
 
二つ目。逆に力を入れなくてもいい
「改善」には一つ目の完璧主義的な側面とは真逆の側面があります。それは解決に執着しないことにより、ありのままの現状を甘受できる、という点です。要は、「ちょっとでも良くなったんなら、それでいいじゃん」ってことです。

詰まる所、現状、完璧主義に染まった人々が解決ばかり追い求めるとかえって「改悪」につながってしまっていた部分が、「改善」の意識によって、

力を入れたい部分に全力を注げる上に、力を抜きたい部分は『改善したんだからまあいいか』と匙を投げられる

完璧主義な人にも、そうでない人にも有効な思考法。
それが「改善」のメリットだと思うわけです。

切り捨てる勇気

それでも「やっぱりこれだけは何とか解決にもっていかないと」って課題がある方へ。

そんな時に必要なのが「切り捨てる勇気」です。

全然必要ないのに嫌々やってる仕事なんてのは結構あるもんです。
学校の部活、「人間関係」のための飲み会、など…

先程説明した「改善の姿勢」を意識しつつ、あなたがどうしても取り組まなきゃいけない問題というのをもっと削れないか、と考えるわけです。

人間は問題が差し迫って積み重なるほどパニックになりがちです。思い切って、「じゃあ部活をやめてみよう」と考えると気がすーっと楽になる場合もあります。

これは不登校の私だから言えることですが「学校に行く」という選択を切り捨てることで十分な心の余裕を持てるようになった部分もあります。

要するに「逃げるが勝ち」っていうことです。「切り捨てる勇気」を持つことでさらに効率的に、「本当にしたいことに」全力を注げます。

成長は捉え方次第

不登校になってから思います。俺は果たして退化したのだろうか、それとも成長したのだろうか、と。私は不登校になったことをはじめは「よくないことだ」とおもっていましたが、以前の記事↓でも紹介した通り、不登校になって得たスキルとかが結構あるんですよね。ギターが弾けるようになったり、読書の時間が増えたり。

人生は変化の連続ですが、それを成長と捉えるか退化と捉えるかは自分次第です。

要は「改善したかどうか」なんて自分が決められるんです。つまり我々は解決こそできないものの、変化を「改善した、成長できた」と実感することはできるのです。これってすごい便利ですよね。だって自分の行動が全部正当化できちゃうし、それだけでモチベーションにも差が出てきますから。人生って案外自分に好都合なのかも。

まとめ

日本人ってつくづく忙しいなって思います。そんな汗くさい日々に風を送るのは

1.解決よりも改善を意識して、「力を入れたい部分に全力を注ぎ、力を抜きたい部分は『改善したんだからいいか』と匙を投げる」この姿勢を大切にする。
2.身の回りにある大きなわだかまりをカットしてみる。僕の場合、学校を休むとか。
3.「改善したかどうか」を判断するのは結局自分。変化した自分を「意外と悪くないかも」と思えればそれでOK。

の3点の意識なのではないかと思います。以上、高校生のガキのおバカな説明文でしたが、感想、批判等ございましたらコメントへどうぞ。お気に召された方はいいねとフォローをよろしくお願いします。では。



 




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