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彼岸花 母思う
こんな都会の街路樹の中に1輪咲いていた 彼岸花
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鳥が種を運んできたのでしょう。
びっくりしました(^^♪
田んぼのあぜ道にたくさん咲く彼岸花を思い出します。
田舎の風景…色んな草木や花々
しぜんと穏やかで優しい気持ちになります。
母は草木や花が好きでした。
家の周りに咲いている花を数輪 とってきて そっと生ける母でした。
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母が亡くなって5年半
長く寝たきりの状態だったので
亡くなった時は よく頑張ったね、お疲れ様
もうゆっくり休んでいいよ、と声を掛けました。
葬儀などの雑事に追われ、そして現実の生活を慌ただしく過ごしていたら
あっという間に時が過ぎ、不思議と涙も出ませんでした。
そのころ涙がでない事を不思議に思っていたら
同じく親を看取った友達が
ずっとそばにいて後悔がないからじゃない?と
そっか…と妙に納得しました。
変なもので 5年過ぎた今頃になって 母をよく想いだし
しぜんと涙が出てきます。
今年 娘が出産し初孫に恵まれました。
自分が娘を産んだ時の事、また自分が小さい頃、そしてそばにいた母の事を思い出す事が増えたせいもあるのでしょう。
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母は子供の頃 満州から引き揚げてきました。
過酷な38度線超えの戦争体験者です。
泣くな!喋るな!
必ず連れて帰るからしっかり歩け!を言い聞かされたそうです。
冗談で、自分が口下手なのは あの時喋るな!と言われたから とよく言ってました。
昼間はびくびくしながら隠れ、夜に歩いて移動。
冷たい川も渡ったし、眠りかぶりながら長い距離を手を引かれ歩いたと。
道中 妹を2人も亡くしたそうです。
はぐれていた祖父と偶然、途中で合流できたからよかったけど
そうでなければ生きて帰っては来れなかったと何度も言ってました。
私が子供のころ、中国残留孤児のニュースが流れるたびに
自分もあの中の一人だったかもしれない、と テレビにくぎづけで
涙を流していました。
祖父・祖母ともに 想像を絶するひどい経験だったのでしょう。
思い出したくない、話したくない事もあったようです。
全部は語らなかったと思います。
朝鮮からの引き上げ体験者の書籍が数少ないのは、母と同じ思いの人が多いからでしょう。
日本に帰ってきたのが小学1年生
それからの1年間は失語症だったようです。
病院にも通ったと言ってました。
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母は更年期くらいから体調を崩しはじめ 私たち3人の子供が各々家庭を持ったくらいから入退院を繰り返していました。
私は母の長い闘病中の記憶が曖昧な所があります。
いい記憶しか残っていないような感じです。
自分の仕事・子供・嫁ぎ先の色んなお世話や雑事…
あっという間に過ぎて行きました。
○○があるから○○はできなかった みたいにだけは したくない と思っていたので、時間刻みで動いていたと思います。
末っ子の私をよく可愛がってくれた優しい母でした。
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この街路樹の中の彼岸花を見つけてからは、特に母が想いだされます。