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短編小説『夜と散歩とぬるいコーヒー』
下北沢に十九時半に待ち合わせた。
「お待たせ」
白いコートを着こなした彼女に声をかける。左目下にあるほくろが今日もかわいい。
今日は彼女の行きたい店に行く番だった。〝下北グレヴィ餃子〟という店だ。店内はなかなかにぎやかで、内装はカジュアルだ。もうすでにできあがっているサラリーマンが散見される。
私たちは、奥まった場所にある席に腰を掛ける。背もたれにコートをかけてから、お互いを見つめ合う。バイト帰りだという彼女は、バイト着だからあんまり見ないでほしいと頬を赤くするが、私には何のことやらわからない。いつもの彼女となんら変わらない。服装なんて関係ない。
隣の席に、かなり年の離れた男女のペアを見つけ、関係性を予想し合う。おじいちゃんと孫だろうという結論で落ち着いたが、おそらくそうではない。東京は怖い。岩手から上京して三年ほどになる彼女もそう感じてきたのではないだろうか。今では、すっかり方言はでなくなってしまったが。
生ビールと適当に注文した色とりどりの餃子が続々と席にやってくる。
「乾杯!」
そう言ってビールをジョッキ半分ほど飲み干す。私はお酒が得意でないし、あまり好きではない。しかし、彼女と飲むお酒は楽しいから不思議だ。
餃子をつまむ。エビが入った餃子が特においしい。彼女もそれに同意した。
「ほんと肌きれいだよね」
そう言って彼女の頬をつまんだ。酔いがまわっていたのだろうか、いやおそらくまだシラフだったが、酔っていたことにしよう。
「ぷにぷに」
思ったことがそのまま声に出てしまった。彼女が頬を膨らませる。
「すべすべって言ってよね、今度から」
こういう時はすべすべと言った方が喜んでもらえるのか。恋愛経験の多くない私にとって、こうゆう情報は貴重だ。心のノートにメモをした。
その後も、餃子をつまみ、お酒を嗜みながら、他愛もない会話を楽しむ。これ以上の幸せはない。
*
店を出て、お店の感想を言い合った。おそらくまたここに来るだろう。そんな予感がした。
「ちょっと歩こうか」
彼女の提案に、私は相槌を打つ。
夜の下北沢は、昼の姿とは様相を変える。趣深く、なんだかさみしい。風はほんのり冷たく心地よい。私は夜の下北沢が好きだ。きっと彼女もそうだろう。
下北沢の風を感じながら、駅周辺をふらふらと歩いていたらあっという間に駅についてしまった。
「もう少し歩きたい」と彼女が言う。相変わらず左目下のほくろが愛おしい。
「じゃあ、一駅先まで歩こうか」
そう言って、私たちは再び歩きだす。彼女はスマホのナビで東北沢までの道を調べる。
私と彼女の家は反対方向にある。彼女は新宿方面の電車に乗り、私は片瀬江ノ島方面の電車に乗る。東北沢まで歩くということは、彼女の家があるほうへ歩くということだ。もちろん、私の家の方へ歩くという選択肢もあったが、私がそれを嫌うことを彼女は知っている。
夜の散歩ってすばらしい。夜の風に包まれて私たちは歩調を合わせる。私たちの間を遮るものはなにもなかった。
あっという間に東北沢駅まで着いてしまう。今度は私の方から彼女に提案した。
「もう一駅歩こ」
彼女は笑顔でうなずく。
「でも、お手洗い行きたい」
彼女がそう言うので、代々木上原まで行く道でコンビニを探す。
「何%くらいきてる?おしっこ」
「う~ん、七〇%くらいかなー」
こんなくだらない質問にも笑顔で答えてくれる彼女は、心地よい風が吹きつける夜道に映えていた。みなさんご存じの通り、こんな質問をする私の恋愛偏差値は低い。
コンビニを見つけ、トイレを済ませた後、私たちはコーヒーを買った。一五〇円の安いぬくもりだ。
私たちはコーヒー片手に夜道に舞い戻る。不思議なことに彼女との会話は尽きない。私は彼女について、大半のことは知っている。それでも彼女への興味が尽きない。もっと深く。そう感じてしまう。これが〝沼る〟というやつなのかもしれない。彼女も同じ思いを持っていたらどんなにうれしいだろう。こう願ってしまうのは、彼女を信じ切れていないのは、私に自信がないせいだ。そんなことを考えながら彼女と会話を弾ませる。
おそらく私が何か考えているのを悟った彼女は私に問いかける。
「ちょっと座って休む?」
「ううん、大丈夫」
大丈夫ではない。彼女との時間を終わらせたくない。ここにきて私の天邪鬼が発動してしまったことを悔やむ。
彼女との時間や空間は、〝楽しい〟とか、〝幸せ〟だとかいう言葉で表現するにはもったいないように感じた。私が言葉で表現できない経験をさせてくれるのは彼女だけだ。なおさら彼女が愛おしい。でも、いつか彼女との日々を、彼女との空間を、彼女との距離を言語化したいと思っている。それまで私は死ぬことが許されない。
細い道に入り、繋いでいた手を離して、彼女の後ろを歩く。彼女の長く伸びた影を踏んだ。さすがに頭の影を踏むことは憚られたので、身体の真ん中あたりの影をぴょんと跳ねて踏んでみた。くだらない遊びだ。それに気づいた彼女は、ニコッと笑う。その笑みの意味が私にはまだわからない。私は彼女をまだ知らない。
そんなことをしているうちに、街には明かりが戻ってきた。おそらく、私たちの夜の散歩の終着駅は近い。彼女との空間に浸っている間はコーヒーを飲むことなんて、さらさら忘れていた。
*
代々木上原駅に着いた。時刻は零時を少し回ったころ。そろそろ終電も近い。
「じゃあ、また」
「うん、また」
そう言い合い、キスをしてから別れた。それぞれのホームへと歩を進める。そうして私たちはそれぞれの朝を迎えるのだ。
手元にはぬるいコーヒーだけが残っている。ほんのりとしたさみしさとともに、私はそれを飲み干した。あの時の安いぬくもりはもうそこにはない。強烈な喪失感が私を襲う。
もう少し彼女のそばにいたい。もう少し彼女のぬくもりに触れていたい。気づけば、私は彼女がいるホームへと駆け出していた。急いで階段を駆け上がる。エスカレーターを使っている場合ではない。ホームに着き、息を吐く。すると、ベンチに座り、儚げな表情でぬるいコーヒーを飲む彼女が待っていた。